絵になるということか [寛容な社会]
3月13日付の西日本新聞の「電話での投稿」みたいな欄に、87歳の女性が、足が悪く、トイレットペーパー買う列に並ぶのが無理だという。そして、陳列棚がからっぽの映像をテレビは流して、不安を煽っているように思えるという。供給できる在庫はあるというのにデマ情報で買い込むのはなぜか。私の身内の者が東京で仕事帰りにスーパーを覗いたらやはり空っぽだという。悪循環です。
オイルショック時の記憶が残っている人たちも少なくないのだろうか、デマと言われても信用できないのでしょうか。たしかに在庫がないのだから。
テレビがおかす過ちというのか、限界というのか、空っぽの棚がなによりも分かりやすいから流すのではないか。今の時期だと入学試験の合否発表があります。合格した人の笑顔を流し続けます。
年末年始の渋滞情報と海外からの休暇帰りの子どもにインタビューする絵は何年も使いまわせるような同じ絵柄です。そこには、正月でも何もない家庭の子の絵は映らない。限定された情報しか伝えることができないのではないか。そのことが共有される社会になりうるのか。情報を発信する側の工夫も求められているのではないか。