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文法もわからない [書く]

 

 

かつて詩を書いていたと知った知人が「それにしては文法がおかしいですね」と言われたことがあります。文法がおかしいのかどうかは分からないまま聞き流しましたが、詩人は文法に習熟しているのだろうかと思ってきました。

 

「大岡信

極まり文句を嫌うとか、ほかの人が使った言葉をそのまま使うことは許されないとか、現代詩独特の現象があるでしょう。それは個性の重視と深くかかわっているのだけれども、そのために、誰でも使っているような言葉が頭に浮ぶと、これは詩の世界のものではなく俗な世界のものだと思って、無理にその言葉を押しつぶしてきたということがある」(『詩の誕生』)

 

大岡氏が指摘するように言葉のこだわりが強いのであれば、詩を書く人の文法も正しく用いられていたのだろう。

 

 

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落書き [書く]

 

 

テレビも面白くないのでというとBSは面白いのがあるよという声が聞こえてきそうですが、BSはつけていません。そこでラジオになります。パソコンでラジコを聞きます。今までNHKは別のソフトでしたが、面倒なのでほとんど聞きませんでした。それが今月からNHKもラジコに入りました。クラシックなども聞けます。

 

 落書きの話です。

 

「全身に落書き男一代の恥辱  85

文字を覚えたての小学生たちはやたら、落書きをしたがる。道路沿いの板塀などに、チョークで「へのへ のもヘじ」など勝手に書き なぐる。「至らんことをし おって・・・」とぶつくさ言い ながら、その家のおやじさが雑巾でぬぐっていた。 1954年の滋賀県の紡績工場、近江絹糸紡績の女工たちが待遇改善を求めて起こした「らくがき運動」。世間が注目する労働争議に発展した。落書きが市民権を得た労働運動だった。

4姉の夏休みの当番登校に、6歳の私が付いて行った。10人ほどの女児たちの書き方自習を私がのぞいていると、誰かが私の鼻の頭に筆で墨を塗った。それをきっかけに、みんなに顔中に落書きをされた。墨汁が流れるのでシャツを脱がされ、ズボンもパンツも脱がされて全身、落書きだらけにされた。揚げ句に足洗い場に立たされ、雑巾でこすられるさまは男一代の「恥辱」だった。」(2017821日西日本新聞)

 

 落書きは昔から抵抗としての表現としても使われたと記憶しています。でも、落書きが許される環境はほとんどありませんが。

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つぶやきの魅力 [書く]

つぶやきの魅力 言葉が駆けぬける

 

大統領のつぶやきが朝一番のニュースになる。

 

「氾濫する言葉  村田喜代子

朝起きると、今日もまた新聞 やテレビが米大統領の「つぶやき」を報じている。金髪の牛みたいなこの人物の電気に乗せた私
語は、三万五千回を超えている。
息をしながらつぶやいている。
ツイッターを「つぶやき」と
いうのはどういうわけなんだろう。「つぶやき」は語尾に「・・・・・」の記号を付すような、小声で聞き取れないくらいの言葉をさす。それが彼の場合は繰り出すミサイルのよう。波乱を呼ぶ。いったいいつから世の中は、こんなにうるさくなったのか。むろん昨日今日からのことでない。ヒトはもともと大昔、合

道と気道が別々になった解剖学的変化で以て、言葉を発するようになった。以来、人間の世間は他の動物と分けて画然と騒がしくなった。(略)

沈黙とは単に「語らざること」 ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものである。  『同』

 

そういえば、かつて日本は沈 黙を大切にする国だったのではないか。多弁より、無言の重みを感得することができた。
民主主義は確かに古いギリシャの雄弁術と共に発展したが、
その雄弁には沈黙との間合いが
なくてはならないだろう。
見まわせば政治家や元都知事

までが、電気の「つぶやき」を発しているが、私は新聞の短い川柳のつぶやきを愛する。たった十七文字の言葉だが、こちらには創作の呻吟が窺える。他意を持たない言葉の素手の人々の姿が清々しい。

 

呟きに「右往」「左往」の 夜明け  福田朋明

 

オスプレイが気を使いつつ 落ちてきた 上野キミ子

 

夢の中やさしい声で話す妻  田中勝子

 

 三番目のふつうの句もいい。」(201729日西日本新聞)

 

毎日新聞の川柳も良い。西日本新聞の「ニュース川柳」も必ず読みます。そして、その力量に驚きますが、すっきりと理解できます。

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端末化しないために [書く]

 地方議会の議員が海外出張の報告書をWEBから引用したりしていることが問題になったりしています。ブログなど書いている自分にも似たような感覚があるのではないかとふと立ち止まります。新聞記事を引用して、若干の私見を加えて投稿したりしているようなことも多いのです。辺見庸氏は次のように指摘しています。
「端末化する生体
ぼくはネット、テレビもふくむ情報のデジタル化は世界像の扇平なデジタル化だとおもうのですが、即時的な情報の伝達と受容が可能になったということを、逆に危険なこと、マイナスのこととして考える発想が、いま、非常に大切だとおもいます。つまり、即時的にメッセージが発信され、それを受けることができる世界は、便利なようでいて、じつは長期的にはヤバイよと。人間の生体として、なにか窮屈な、生体として受けいれることができない無理がきているとおもうのです。これにより人間は思考的な生きものではなく、反射的な有機体であることを求められている。末期資本主義はわれわれに思索ではなく、反射と即時的かつ即自的な反応のみを要求している。」「われわれはみな携帯電話を内蔵した存在になった」とジャン・ボードリャールが書いたのは早くも一九九○ 年代でしたが、事態はいま、文化論の象徴表現的次元をこえて、はっきりと現実化しています。人間が携帯電話を身体に内蔵したような生きものになってしまったことは、秋葉原事件の青年だけでなく多くの人が認めざるをえない事実なのです。」『しのびよる破局』
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そんなことを改めて考えたのは昨晩から読み始めた『ゆびさきの宇宙』の主人公盲ろう者の福島智さんのことを考えたからです。見えない、聞こえないという世界に徐々に誘導されて、世界初の盲ろう者大学教授になります。そこでの福島氏の思索の深まりをどう考えたら良いのか。指点字というのを発見してというか、発明して、初めてコミニュケーション手段を得ますが、一見するとその場の雰囲気を含めて得られる情報量は大いに制限されているわけです。

ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて

ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて

  • 作者: 生井 久美子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2009/04
  • メディア: 単行本

それを乗り越えていくこと、必要な情報など考えさせられる内容があります。ネットや新聞・テレビでたくさんの情報を得ているというのは、本当なのか。誰かに操作されていないのか。裁判員制度で利用される画像説明にもバイアスがかかっているので、誘導されやすいという指摘もあります。そうすると、情報とは何か、どう選択するかの基準が求められるように思いますが。 


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ペンネーム [書く]

いくつか書いたりしていますが 基本的に本名です。でも、利害に関わるものではペンネームにしたいと思うことがあります。しかし 佐野眞一氏は次のように書いています。

 そもそも物を書くということは、多かれ少なかれ、誰かを傷つける行為である。それを自覚し、引き受ける覚悟がなければ、物書きなどやめた方がいい。匿名で書けば、書いた責任が免れられるという発想には、精神の弛緩しか感じられない

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たしかに 逃げの姿勢があると無責任になる。インターネットでの世界でハンドルネームだけのものでは 結構ひどい言葉が交錯しています。なにかの意見表明するなら本名でというのは分かりますが

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