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なぜか歴史好き [歴史散歩]

 



 



10月26日の「ファミリーヒストリー」では爆笑問題の田中さんのルーツが福岡県小郡市(おこおりし)だという。歴史としても面白かった。



 



「コラム デスク日記 2020/10/26 西日本新聞 社会面 吉丸 宣孝 



  大の歴史好きだ。それだけに、史跡の案内板などに出くわしては足を止める。京都市内などを歩くとたまらない。目的地への途上で数々の“誘惑”に行く手を阻まれる。思いがけない歴史との出合いが、楽しい。



 通勤途中にも発見がある。福岡市中央区天神3丁目。細い路地の電柱脇に石碑が立つ。「廣田弘毅先生生誕之地」。福岡市出身の初の総理大臣で、極東国際軍事裁判でA級戦犯として死刑となった。碑の左脇には「出光佐三書」とある。(以下略)」



 



 博多には歴史を感じさせるものが多いですね。京都市内も凄いとよく耳にします。博多に来て最初に知ったのが国道3号線沿い(千代3丁目交差点そば)にある「 濡衣塚(ぬれぎぬづか) 」は、濡れ衣の語源となった悲劇の場です。



「廣田弘毅先生生誕之地」の碑から西側の親不孝通りの所には西郷隆盛が滞在した碑があります。このように注意してみていると結構あります。電柱に説明をしているところもあります。



  公的な歴史資料館などが無料の講座などもやっています。「なんで歴史が面白いと」と尋ねられても説明できないのですが。


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中世の遺跡も [歴史散歩]

 

 

地下鉄工事で沈没したところなどを含めて、遺跡の発掘が続けられています。「ブラタモリ」でも紹介されたのは、キャナルシティ博多の近くです。

 

「見えてくる寛容な都市像

中世最大の貿易都市 博多遺跡群発掘40

出土品2000点が国重要文化財に

 

11~16世紀、博多は中世最大の貿易都市として栄えた。 その遺構である博多遺跡群 (福岡市博多区)の発掘調査 が始まって今年でちょうど40年。輸入陶磁器など計約35万 点が出土し、3月には、このうち約2千点が国重要文化財に指定されることが決まった。一連の調査成果から、異文化に寛容な中世博多の都市像が具体的に見えてきた。(略)

中国文化は都市の隅々に 浸透していたようだ。 交易の主な担い手は、博多に住んだ中国・宋の商人「博多綱首」。博多と現在の浙江省寧波を結び、承天寺(博多区) の創建を支援した謝国明のように日本人の妻を持つ者もいた。遺跡群では中国人の名前が底に墨書された陶磁器が多数出土する。荷主を表すと考えられ、交易の窓口・博多ならではの遺物とされる。 古代の迎賓館「鴻臚館」の 廃絶と軌を一にして、都市が 形成された博多。中世の地形は、現在の明治通り周辺を境 に、内陸側の博多浜と海側の息浜(おきのはま)という二つの砂丘に分かれていた。港は博多浜西岸にあったと推定される。船から荷揚げする時に壊れたのか、大量の陶磁器が波打ち際に捨てられた痕跡が見つかった。シンボでは息浜にも港があった可能性が報告された。重文指定品の意義について、文化庁の横須賀倫達文化財調査官は「中世日本の貿易の実態を明らかにし、港湾都市に住んだ人々の生活や生産、経済の具体像を示す」と解説した。

謎もある。12世紀の文献に 「博多津唐房」という言葉が 登場する。現代風に言うとチャイナタワンだ。遺跡群の建物跡に大差がないため、所在地は分かっていない。

調査に携わった福岡市埋蔵文化財センターの大庭康時所長は「宋人は日本風の建物に住んでいたのでは」と想像する。 ただ、中国風の瓦は出土している。近年の研究ではこれらが寧波の土で作られたことや、寧波の瓦と同一の文様のものがあることが分かった。博多津唐房の場所を特定する手掛かりになるかもしれない。 遺跡群が見つかる以前は、 中世博多の研究は文献調査が 中心だった。「文献は社会の 上層部が残したものが多く、 民衆の生活について多くを語らない」と九州大の佐伯弘次教授(日本中世史)は言う。

40年間の発掘調査の意義は大きい。発掘面積は、遺跡全体の1%にも満たない約82万平

方メートルで、中世博多の大部分は地下に眠ったままだが、都市の概観は分かった。今後について、大庭所長は「桟橋など港の具体的な様子はどうか。博多はうどんの発祥地とされる

が、考古学的に裏付けられないか。きめ細やかな成果を出していきたい」と話している。

(野村大輔) 」(2017614日西日本新聞)

 

承天寺など寺が多い地域を御供所町と言い今も地名が残されています。筥崎宮にお供えする供物を用意した地域からきているという。御供所町は今に比べると相当広かったという。

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歴史散歩・梅頭遺跡 [歴史散歩]

 

 

須恵器の生産拠点が私が住んでいるところにはあったという。須恵器は「陶質土器(炻器)で ある。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的
なものもある」とされまずが、写真をご覧ください。6世紀から9世紀ごろまで続いたとされています。

下大利からバスに乗ると3つ目のバス停が日の浦であり、近づくとバスの料金表示横に遺跡の説明画像が出てきます。今年になったからだと思います。近くに、昨年だったと思いますが、職人の集落跡と思われるものが発掘されました。

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大野城市説明資料から
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大野城市ホームページの遺跡説明です。

「梅頭遺跡の場所

 遺跡は牛頸(うしくび)山から北側にのびる丘陵がヤツデ状に分かれる小丘陵の西側斜面にあります。三兼池をとおって谷を抜けると古墳時代の集落である上園(かみのその)遺跡、南南東約700メートルの所には牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)最古の野添(のぞえ)6号窯跡があります。

 

何が見つかったの?

この遺跡では窯跡と土坑が見つかりました。

 窯跡は1基確認されました。全長は約11.5メートル、幅約1.75メートル、高さは約1.1メートルで、側壁は焚口(たきぐち)から煙出し(けむりだし)までほぼ直線になる形態をとっています。床面(ゆかめん)には1枚貼床(はりゆか)が認められ、側壁にも補修のための貼り壁(はりかべ)が認められます。窯尻(かまじり)の床面に残った痕跡から、煙の出口に粘土柱を立てて煙出しの穴をたくさん作り出す、全国的にも牛頸窯跡群にしか見られない『多孔式煙道』(たこうしきえんどう)を持つ窯跡であるようです。窯跡の煙道部には作業路(さぎょうろ)と呼ばれる溝がつき、弧を描き窯跡の左側斜面中腹までのびています。最も深いところでは約1.8メートルあります。

 

 窯跡の中からは、鉄刀1本、鉄鏃5本、多数の完形品の土器が見つかりました。いずれも窯の操業終了後、置かれたと考えられます。鉄刀は全長約77センチメート、刀身の幅約2.03.3センチメートル。鍔(つば)やはばき、鞘尻金具(さやじりかなぐ)、柄(つか)を止める目釘(めくぎ)まで残っており、さらに柄や刀身には木質が残っていることから、当時鞘に納められ、完全な形で置かれていたと考えられます。またX線写真撮影の結果、はばきには文様があることがわかりました。鉄鏃は木質が残っていることからいずれも矢柄(やがら)に着装された状態であったと思われ、出土状態から束ねて置かれたと考えられます。

 完形品の土器は須恵器杯身(つきみ)、杯蓋(つきぶた)、提瓶(さげべ)などがあり、いずれも精微なつくりで、十分商品として使用できるものです。うち2点には、赤い顔料ではないかと思われるものが付着しています。

 灰原(はいばら)からは須恵器杯身、杯蓋、高杯(たかつき)、提瓶、壺(つぼ)、甕(かめ)の破片が出土しました。中でも注目されるのは、車輪紋(しゃりんもん)と呼ばれる当て具痕を持つ脚付きの須恵器です。器形も非常に特殊ですが、この種の当て具痕は牛頸窯跡群では見つかっていません。

 類例としては、北九州市天観寺山(てんかんじやま)Ⅱ区12号窯跡、大阪府陶邑(すえむら)窯跡群TG68号窯跡があり、他地域の工人との交流があったことを伺わせます。

 窯跡は出土した須恵器の形から、古墳時代の終わりごろ、6世紀末から7世紀初頭にかけて操業されたと考えられます。

 

何がわかったの?

 

現在窯跡は明治時代初めに作られた三兼池に面していますが、操業当時、池は大きな谷であったと考えられます。この谷を下ると上園遺跡があり、須恵器工人が住んでいた集落と考えられています。おそらく梅頭遺跡で見つかった窯跡は、上園遺跡の工人たちが作ったものと考えられ、作られた土器はこの谷を上って窯まで運ばれ、焼かれた製品は谷を下って各地へ運ばれたと考えられています。また当て具痕の特徴から、ここの工人たちが大阪や北九州の工人たちと交流があったことがわかります。もしかしたら、向こうの工人が道具も一緒に持ってきて、作ったのかもしれません。また、窯跡の中から鉄刀・鉄鏃が見つかったことは全国で初めてのことで、極めて重要な発見です。窯跡内の土層の観察から、窯の操業が終わり窯内に少し土がたまった段階で鉄刀・鉄鏃は置かれたことがわかっています。このことが意味する所はまだわかりませんが、可能性としては

     
(1)
窯を閉じる際のおまつりに使われた

     
(2)
窯に関係の深い人が埋葬された

 

2つがあげられます。今後慎重に検討を進めてゆきたいと考えています。

まとめ

 遺跡の南南東約700メートmの所には牛頸窯跡群最古の野添6号窯跡があります。時期は梅頭遺跡の窯跡より約50年ほど前の6世紀中ごろのことです。以後、牛頸窯跡群は遺跡の範囲を現在の太宰府市や春日市にまで広げ、奈良時代の終わりごろ、8世紀の終わりまでの約250年間あちらこちらの山々で須恵器を焼く窯の煙が立ち昇っていました。梅頭遺跡はちょうど窯をたくさん作り始めた時代にあたり、集落から近い所が選ばれたのでしょう。また、須恵器作りに関わる工人が鉄刀を所有していることはあまり想定されていませんでした。今回の発見で、須恵器工人のイメージが変わるかもしれません。

 

遺跡の周辺の上大利地区は日本でも有数の窯跡群である牛頸窯跡群はじまりの地でもあり、操業開始期の様子を知る上でも非常に重要な地域で、全国的にも注目される地域です。今後、周辺では区画整理事業にともない発掘調査を進めていきますので、どんな発見があるかご期待ください。」


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特別史跡水城跡「100年ぶりの土塁断面発掘調査」説明会に行く [歴史散歩]




663年 朝鮮半島の白村江の戦いに敗れた日本は、大宰府政庁などの防御のために、朝鮮式山城、大野城と基肄城をつくり、664年に巨大な防塁に水を貯める施設・水城を作ったとされています。今年度が築造から1350年ということで、土塁の内部構造の調査結果を公開しました。6月1日と8月に公開するとありましたが、沢山の人出と暑さで早々に引き揚げてきました。以前も、発掘の一部を見たことがありますが、今回の調査で、土塁上部が大宰府側が低くなるように傾斜しており、土塁を安定させるためではないかと述べられています。続いて報告書によると

「〔土塁最下部〕
火山灰起源とみられる黒色土の下位では、厚さO.3m程度の青灰色や灰白
色粘質土を互層に積んでいます。そして最下部の青灰色や白色粘質土から敷粗朶を確認しました。敷粗朶は3層程度埋設されていますが、密な状態では ありませんでした。

腐食が進むものもありましたが、当時の緑色を残す葉も検出され、樹種分 析の結果、シイ属ツブラジイ、アワブキ属などであることが同定されました。

以上のことから、白村江(はくそんこう)の戦い大敗後の対外的緊張感が高 まる中で、周辺に分布する自然の土を用いながら、現代の土木技術をもってし でも大変難易度の高い構造物を様々な技術を駆使して築造していった様子が浮 かび上がり、1350年前の技術レベルの高さを窺い知ることが出来ました。」

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九州歴史資料館資料から
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歴史散歩・上人橋通り・香正寺 [歴史散歩]

 

 

西鉄天神駅南口から国体道路に出ます。国体道路は川を埋めたもので今でも豪雨時には冠水することがあります。若宮神社を過ぎて警固1丁目バス停手前から薬院六つ角に抜ける通りが上人橋通りです。曲がり角のコンビニの反対側に通りの由来の説明板があります。次のような趣旨の説明があります。

「香正寺の前を走る「上人橋通り」は、日延上人の名にちなんでいます。日延上人は囲碁に精通していて、藩主・黒田忠之の碁の相手をよく務めていました。

ある日、いつものように日延上人が登城しようとしたところ、香正寺と福岡城下の間に流れる小川が降雨で増水し、日延上人は川を渡ることができませんでした。

この一件を聞いた忠之は、小川に橋を架けさせました。それが上人橋です。忠之が揮毫したといわれる「上人橋」と刻まれた橋柱は、現在、香正寺の庭園内に保存されています。

小川は昭和10年代に埋められ、現在は国体道路へと姿を変えています。」

以前は、国体道路になっている小川から南側に広大な香正寺の敷地だった。

「日蓮宗の長光山香正寺は開山は可観院日延上人です。朝鮮の高麗国王の王子で、4才のとき、朝鮮に出兵した肥後の加藤清正に連れられて日本に渡って来たのが、後の日延上人です。福岡藩2代藩主・黒田忠之と、義姉の長光院の帰依を得て、現在地に9,000坪の寺地を与えられた日延上人。宗像の禅宗の廃寺「立国山香正寺」の名前を受けて、寛永9年(1632年)、日蓮宗に改め「長光山香正寺」を開山しました。」(福岡市Webまっぷより)

黒田官兵衛の弟の黒田直之のお墓があります。お寺は新しい装いになっています。

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黒田直之公墓所

                         

 


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歴史散歩・天神にあった肥前堀 [歴史散歩]

 

 

現在の天神地下街大丸入口近くに「石積みの広場」があります。これは、かつてここにあった「肥前堀」をイメージしたものです。天神から福岡市役所南側などが堀にかかるそうです。福岡城築城時は、石垣がなく、たびたび土手が崩れたので文化8年(1811年)に石垣を築いたとの記録が残っています。なぜ、肥前堀というかというと、佐賀藩は関ヶ原では豊臣方につきます。徳川からすれば敵ですが黒田如水(官兵衛)に頼み込んで、とりなしを頼みます。官兵衛に対する徳川の信頼は厚く、鍋島家は安堵されたと言われています。そのお礼として堀の修復などに佐賀藩が支援したということから名づけられたという。

 明治43年、埋められたという。

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歴史散歩・蓮子が住まなかった赤銅御殿(あかがねごてん) [歴史散歩]

 

 

連ドラ「花子とアン」では、柳原白蓮のモデル蓮子と伊藤伝衛門のモデル石炭王・嘉納伝助が結婚するところになってきています。伊藤伝衛門の本宅は飯塚市にあり現在は公開されています。別邸が現在の福岡市天神のりそな銀行東側にありました。福岡証券取引所と北側の伊藤ビルあたりです赤銅御殿(あかがねごてん)白蓮のために大改装し、屋根をすべて銅でふいた豪壮な建物で赤銅御殿の名前があります。しかし、完成前に離婚したので白蓮が住むことはなかった。現在は、昭和通側の喫茶店裏側に僅かに赤レンガ見えます。

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歴史散歩 大宰府・観世音寺 [歴史散歩]

 

 

大宰府政庁跡から東側に少し歩くと戒壇院があり、隣接して観世音寺があります。観世音寺は地名として残されていますが、元々は、戒壇院などを含めての大きな施設だったようです。観世音寺は、百済支援と日本防衛のために女帝・斉明天皇が朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉市と言われているが確定していない)に朝廷を移した後亡くなり、天智天皇が母の菩提を弔うために建立したとされています。

空海は唐から帰国して京に入るまでここで暮らしたという。日本最古の梵鐘や五重塔心礎、「天平の石臼」と言われる碾磑(てんがい)があります。(「太宰府紀行」より)

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