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最古の文字か [歴史]

 


 


文字を忘れていくのは年齢だけではないという気がします。そのひとつに手書きをしないことがあります。パソコンなどでは書き方があいまいでも表記されます。手書きをする機会はほとんどありません。毎朝、血圧測定結果とテレビや新聞で気になるニュースの見出しをメモします。すると、書き方が曖昧にしか記憶していないことがあります。覚えていないことは分かりますが、正しい文字を記憶させるのは1回書いただけでは戻りません。いい方法はないでしょうか。このように文字についてのささやかな格闘をしています。それとは別のことかもしれませんが、文字をいつから使い始めたのかということの解明につながるかどうか、興味があります。


 


 


「弥生時代「すずり」に最古の文字か 松江の田和山遺跡から 慎重な意見も2/1() ヤフーニュース毎日新聞」によると


「松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200300年さかのぼって最古となる。一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ(以下略)」


 


 記事によれば人名の可能性があるとし、私有意識があるのではないかという説や、中国からの文化伝承の時期が早かったことになるという説。文字かどうか慎重な見極めが必要などの説を紹介しています。さらに、文字使用の時期が早まる可能性もありそうです。


 


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歴史の真実は [歴史]

 


 


「伊方原発3号機で停電トラブル 四国電「ほぼ全電源、一時喪失」共同通信 」という。予測つかない事故はあり得ます。先の裁判の結果が尊重される必要があります。原発に依存できないと思うのは、使用済み核燃料の保存法が決らないままです。そして、保存期間の長さです。そして、廃炉するための技術と費用が膨大なものになりそうですからです。廃炉も未経験です。原発の稼働にはいろんな説明がされていますが、電力不足だからという論理は破綻しています。安上がりの原発は高価なものだったということです。


 原発開発歴史の真相を知りたいのです。


 次の話題は度重なる戦の主人公・上杉謙信のことです。


 


「コラム 朝刊太郎の雑記帳 戦国九州の生き地獄2020/1/23 上別府 保慶」からです。 


 


「新潟県民が誇る武将の上杉謙信は、歴史ドラマでは同盟者との信義を守るために出陣を繰り返した「義」の人として描かれる。


 ところが、あれは侵略戦争だったと喝破したのが、ほかでもない新潟出身の歴史学者、藤木久志さん(立教大名誉教授)だった。


 新潟には米どころの印象がある。それは江戸時代に新田が開かれ、昭和に米の品種改良が進んだからだった。戦国時代はむしろ貧しく、謙信は領地や食料を奪うために出征したと藤木さんは考えたのだ(以下略)」


 


 藤木氏は背景にある飢餓を指摘していたという。寒冷地の気象条件もあり食糧確保は目前の課題であったという。先の大戦時に開拓民として長野県辺りからの移住が多かったという。新潟はどうだったのだろう。引き揚げ時の混乱の中で「残留孤児」となった人たちをはじめ苦難は庶民が背負ったのではないか。


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令和の里の隣りで [歴史]

 


 


元号との関わりで有名になった大伴旅人邸跡の候補地のひとつとされる坂本八幡宮への入り口の道路の西側のこんもりとした丘で長年発掘調査がされています。その地名を「蔵司(くらつかさ)」と言います。地名から九州各地などの納税したものの保管場所ではないかと言われていましたが、ここ数年で建物跡が確認されただけで機能まではまだ分かっていないと言われています。蔵司地区の東側が大宰府政庁跡です。広い公園になっています。桜の季節にはたくさんの人出があります。そこでの発掘調査の説明会の案内記事です。


 


「大宰府跡蔵司で大量の瓦片出土 あす現地説明会


九州歴史資料館(九歴、小郡市)24日、太宰府市の国特別史跡「大宰府跡」蔵司地区の丘陵南端で大量の瓦片が見つかったと発表した。周辺から礎石も複数出ていることから、九歴はこの場所に蔵司の倉庫群に出入りする門など、重要な瓦ぶき礎石建物があった可能性が高いとしている。瓦片が見つかったのは、これまでの調査で逆コの字型配置の礎石建物6(倉庫)が確認された丘陵中央から約20メートル南の地点。礎石建物への進入路を探る目的でトレンチ(試掘)を実施したところ、89世紀の大量の瓦片が出土した。上層からは鬼瓦も出た。この地点より西側の台地にある、大型礎石建物跡の南正面でもトレンチを実施し、掘っ立て柱建物跡と見られる柱穴4基を確認した。こちらは78世紀の蔵司の門など官衙(役所)の可能性があるとみられる。(以下略)」(20191025日西日本新聞)


 


菅原道真は「天神信仰」の対象となり、天満宮へのお参りを「さいふまいり」として各地から参拝にでかけたとされています。政庁跡の南側の道路に「さいふまいり」の「道しるべ」が新しく設けられています。長い信仰の歴史が感じられます。そのルートはいくつかありますが、なかには山を越えての今でも険しい道路もあります。大宰府の全容はまだまだ分からないことが多いようです。


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奴国の存在は [歴史]

 

 

朝ドラ「なつぞら」が終わりました。注目したのは柴田泰樹の老いと18歳で開拓を始めた境遇への共感です。多くの年寄りに勇気を与えたと思います。

 

みなさん承知の金印についての記事がありました。

古賀英毅氏の真贋論争を含めての解説記事で金印のことについて次のように述べています。

 

「金印は誰に与えられたのか

近年真贋論争が再燃している福岡市東区の志賀島で見つかった国宝「金印」。製作過程を検証する民間団体の実験で完成した再現品が披露されるなど何かと話題となり続けているこの印章は、そもそも一体誰に与えられたものなのか。専門家の間でも意見が分かれ、教科書的な「奴国王」に限らない見解もある。

伊都国王?

倭国王?

奴国王?

 中国の歴史書「後漢書」には、紀元57年に「倭奴国」からやってきた使節に後漢初代皇帝の光武帝から印綬が与えられた、と記されている。(以下略)」(2019923日西日本新聞)

 

ところが、奴国があったとされる春日市や福岡市博多区に1世紀の王墓が見つかっていないという。糸島市には伊都国があり、同時期の王墓があるという。それで専門家の間でも意見が分かれているという。邪馬台国の論争でも気になることがあります。百舌鳥古墳群がいつのまにか仁徳天皇陵として「復活」していることです。公式には世界遺産のなかでは使用されないのに、天皇陵にしたがる人たちがいるのでしょうか。そして、邪馬台国の存在も近畿説に傾いているように思えますが、考え過ぎなのでしょうか。

 

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「飯田屋敷の大銀杏(おおぎなん)」は [歴史]

 

 

福岡スターレーン・日本たばこ産業は中央区役所の向かい側にありました。「飯田屋敷の大銀杏(おおぎなん)」と知ったのは通勤の時見た説明板でした。保存樹が最も多いのは自慢していいと思う。私の住むところでは街路樹の伐採が進んでいます。

 

「春秋  2019/5/19 西日本新聞 オピニオン面

 街路樹の青葉沿いに福岡市中央区の明治通りを天神から西に歩いた赤坂寄りに、樹齢約400年のイチョウがある。日本たばこ産業(JT)福岡支店があった所だ。昭和半ばを知る世代は福岡スターレーンというボウリング場を思い出すだろう

▼イチョウは「飯田屋敷の大銀杏(おおぎなん)」と呼ばれる。昭和のはるか前、肥後加藤清正の重臣飯田覚兵衛が、清正没後、黒田藩に召し抱えられたとき熊本城から苗木を移植した

大きく育ったが都市化で衰え、幹の空洞化も進んだ。6年前にJTが再生治療を始め、落ちそうな枝は伐採、空洞に苗木を移植したりしてきた

▼江戸以降の福岡を見てきたこの大銀杏には「保存樹 中 39号 福岡市」と記された標識が付いている。標識付き保存樹が市内には約1900本ある。法律に基づき大樹の保存を自治体が助成中。国土交通省の都市緑化データベースによると、保存樹は福岡市が全国で最も多い

▼それを知る市民は多分少ない。市の都市景観室のホームページを開くと「お寺の数は京都に次いで多い」とも出てくる。クルーズ船寄港回数の多さなど「今」で語られることが多い福岡だが、私たちが知っている以上に「昔」が息づいている街なのだ

▼飯田屋敷の大銀杏の再生は100年がかりという。100年先の福岡を想像する。「昔と今」が溶け合うことを基本にした街づくりで元気を継ぐ都市の手本になっていてほしい。」

 

 

 

 

 

 


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「二つのダザイフ」 [歴史]

 

 

 

2019419日西日本新聞からです。

 

「「太宰府」と「大宰府」

表記の混乱?奈良時代から

新元号「令和」のスタートまで2週間を切った。出典となった万葉集所収の和歌を大伴旅人(665―731)が 詠んだ舞台が福岡県太宰府市。市内には大宰府政庁跡、太宰府天満宮など「大」「太」 の表記が併存する。二つのダザイフが生まれたのはなぜ?

Qどう区別するの?

A同市教育委員会文化財課によると「古代律令時代の役所、及びその遺跡については『大宰府』、中世以降の地名や天満宮は『太宰府』」と使い分けている。新聞の表記もそれに準じているんだ。

Qもともとは「大宰府」だったんだよね。

A「太宰府市史通史編 I」げによると、「大宰府」の 文献初登場は日本書紀の天智天皇10(671)1110日 の条。白村江の戦い(663 )などの緊迫した東アジア 情勢を受け「対馬国司が唐の使者などの来朝を筑紫大宰府に報告した」という記録がある。古代の大宰府は九州を管轄し「大宰之印」という印影付き文書も残っている。(以下略)」

 

旅人邸跡とされると政庁跡西北の坂本八幡神社については根拠がないという。要するに未定だということです。情報が独り歩きしているようです。


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大宰府政庁跡が [歴史]

 

 

元気な頃は、政庁跡まで歩いていた。広い空間に桜の時季の空間が心地よい。子どもたちがどれだけ走り回ろうと遮るものさえないように思えます。天満宮とは距離があり、地味な感じも良い。展示館はいつも閑散としていたが今はにぎやかだという。「梅花の宴」が開かれた旅人の邸宅は、確定はしていない。

 私の散歩コースには万葉歌碑が10か所程度置かれています。ゆっくりとした空間を楽しむ時期にはちょうど良い気候かもしれません。

 

「オピニオン  デスク日記

 春の訪れは、ふるさとの太宰府天満宮(福岡県太宰府市)から届く「飛梅開花」の便りで実感してきたように思う。天満宮近くの祖父宅にも大きな実が付く紅梅があった。普段は静かな印象の古都が、万葉集に残る、「梅花の宴」で詠まれた歌の序文が出典となった新元号「令和」で注目され、なんだか照れくさい。

 改元を前に、昭和50年代、遠足でよく出向いた大宰府政庁跡を訪ねた。宴が催された大伴旅人の邸宅があった場所は諸説あるが、その一つ、政庁跡北西に位置する坂本八幡神社では、氏子たちが急増した参拝客への対応に追われ「うれしい悲鳴です」。クスの若葉が芽吹き始めた境内で、次代に思いをはせた。

 小学校の校歌では「梅の香におうふるさとに ああ 新しい希望-」と声を張った。平成は「戦争のない時代」だった。元号が変わっても、老若男女が希望を抱き続け、和やかに過ごせるよう、この点は継承したい。 (竹森太一)=2019/05/01付 西日本新聞朝刊=」

  

 

 


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街道のロマン [歴史]

 

 

新聞の投稿欄からです。

 

「スマホに夢中 迷惑気にせず  67

  天神(福岡市)で地下鉄に乗車しようと並んでいると、列車が到着して乗客が 降りても、前にいる男性はなかなか乗ろうとしなかった。「間もなく発車します」 の合図に、私や後方の人は 慌てて乗り込んだ。その男性に目をやるとスマートフォンに見入っている。公共の場では少しは周囲に目配りしてほしいものである。地下街を歩いていても、 駅の階段を上り下りしている際も、スマホだけに集中 している人をよく見かける。あるときは目的地を探しているのか、エスカレーターの上った所で立ち止まっていて前の方と危うくぶつかるところだった。(以下略)」(2019214日西日本新聞)

こうなると依存症ではないかと思うのだが。

 

話題は変わって歴史に関心を寄せる人の話です。

 

「九州に通じる街道のロマン  60歳

山口県内の大学で学んでいたころ、新作映画を見るために時々、博多や小倉に行った。JRで約2時間の最も身近な都会。映画のあとはいつも博多ラーメンや中華料理を食べた。卒業後は故郷島根県の市役所に就職した。50代を過ぎた頃、大病を患い早期退職し老後生活に入った。

郷土史を読んでいると、九州に通じる街道の名残が随所にあることが分かり、リハビリを兼ねてガイドブッ ク片手に歩いている。多くの古道は地元の人々が山行きなどに通るため、 道の形骸が各所に残っている。昔の人はこの道を通ってはるか遠い九州を目指したのだと体感することができた。現在は飛行機や車であっという間に九州に着くが、当時は何カ月もかかったのだろうと思えばロマンを感じる。最近、九州方面に行ったことはない。今年は懐かしい九州を訪ねてみたいと思っている。(松江市)」(同前)

 

いつも通っている道がかつての太閤道だったと知ったときは驚きました。関心がない人であれば「あ・そう」で終わるのでしょうが、かつての国道1号線みたいなものですが、今では車一台が通るほどの幅でした。ここを秀吉が名護屋に向けて通り抜けていたのです。九州にもこんなところがあります。

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道真終焉の地 [歴史]

 

 

 

大岡信氏は菅原道真が大宰府に行ってからは「嘆きの詩」となりかつての絢爛さは消えていくと指摘し、「自分の居場所と定められた家からはほとんどほとんど 外 出なしでわずか 大宰府の鐘の音がきこえてくるとか、窓の向こうに、ちらと楼閣の屋根が見えるとか、そういうところにモチーフを見出している(以上『詩の誕生』より引用)

太宰府での道真の住居跡が先年発掘されたが、今は神社になっていますが、とても狭いものだした。鐘は最古の鐘と言われる観世音寺のものだと思われます。今でこそ、少しは住宅がありますが、当時は辺鄙な場所だったでしょう。大宰府政庁跡の南側にあたり榎社と今はいいます。今でいう公務員宿舎なのでしょうか。不遇な晩年を過ごします。

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盃状穴の正体は [歴史]

 

 

今年の3月に書いたものです。30日の新聞で水城か小水城の門扉と礎石だという。

 

「盃状穴を知る [歴史散歩]

本日の話題は盃状穴です。

散歩していたら大野城市の上大利にある「老松神社」に出ました。「老松神社」の祭神は菅原道真公だそうです。近くには「老松神社」が2か所あります。ここに寄ったのは2度目ですが、今回、「盃状穴」(はいじょうけつ)という手洗い石の説明板に気づきました。

 

「「盃状穴」とは、盃のような形に石を彫りくぼめた小さな穴のことをいいます。古くは旧石器時代の北ヨーロッパの遺跡から発見されています。日本では弥生時代から古墳時代の遺跡で見られることがあります。

盃状穴の性格については、その形が抽象化された女性のシンボルと理解され、新しい生命の芽生え、産物の豊かな実り、また、死者の蘇生を願う呪術的な意味を持つものといわれていまます。

ところで、日本では江戸時代以降でも西日本のかなり広い地域で神社や寺の境内の手洗い石、石灯篭、道端の道しるべなどに同じようなものが彫られていることがあります。これら江戸時代以降の盃状穴の性格は、弥生時代から古墳時代のものとは別のものと考えられますが、神社や寺などに多く見られることから何らかの民間信仰に基づいて作られているものと思われます。しかし、具体的なことについては解明されていません。

上大利老松神社の手洗い石にみられる盃状穴も、この地方の民間信仰に基づいて作られたものと思われます。市内で数件発見されているものの中でも代表的なものです。

平成六年八月一七日

大野城市教員委員会」

 

別の資料よれば上大利を含む下大利一帯は安楽寺天満宮(京都市)の荘園であったそうです。その関係で神社ができたようですが、盃状穴については良く分かっていないようです。

2018-03-19

 

20181030日の西日本新聞の記事です。

 

「城門の礎石と確認 上大利老松神社の石

大野城市教育委員会ふるさと文化財課は29日、同市上大利の上大利老松神社にある石を古代城門の礎石と確認したと発表した。近くに664年築造とされる国特別史跡の「水城」と「小水城」があり、いずれかの掘っ立て柱型式城門に使われた可能性が高いという。

礎石と確認された石(長辺約105センチ、厚さ最大49センチ)は表面に数センチから十数センチの浅い穴(盃状穴)と門扉受け穴(直径19センチ)などがある。これまでに確認された別の掘っ立て柱型式の城門礎石と似ており、識者から「城門礎石に間違いない」とお墨付きを得たという。同課によると、水城跡から過去に7点の礎石(うち城門礎石は6)が確認さ

れている。「今回の城門礎石は水城跡や大野城跡でも最古式とみられる。水域か小水域のどちらかに据えられた可能性が高いが、現時点では不明」としている。(以下略)」

 

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