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「福岡目線」 [歴史]

 

 

弥生時代と縄文時代を分けるのは稲作文化と教わりましたが、縄文時代にすでに始まっていたというのが現在の説らしい。

 

「コラム 残響 西からの視点で

考古学では、見る人の認識によって遺物や遺構の見え方が変わる。近年、弥生時代の硯が相次いで確認されているのも然り。弥生時代に文字文化は存在しなかったと考えると用途不明の石片に見えた遺物が、文字文化はあったと思うと、硯の破片に見えてくる。考古学の面白さでも ある。鹿児島大の橋本述也教授(考古学)は、大陸に近い北部九州を先進的と決めつける「福岡目線」に異議を唱える。地理的に辺境の南九州だが、特有の地下式横穴墓から

は大和政権との強い関係を示す武具類が出土するし、九州最大の前方後円墳は西都原古墳群 (宮崎)の女狭穂(めさほ)塚だ。南九州はけっして後進地ではない。(以下略)」(2018727日西日本新聞)

 

今も、九州での福岡目線は随所に見るようです。南九州では縄文時代の遺跡が巨大カルデラ噴火で覆われてしまったので発見が遅れたという。伊方原発の再稼働ではカルデラ噴火のことは議論されたのでしょうか。

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歴史を推理する [歴史]

 

 

『武士の日本史』によれば、武士とは武芸を生業とするものであり、いわゆる「芸」なのだという。「芸」だけでは武士とは呼ばぬそうです。

 

「コラム 風向計 庶民の歴史を推理する 編集委員 上別府 保慶

 時代劇に多く出た高橋英樹さんは、歴史好きで知られる。NHKの高校講座「日本史」で教師役を務め「歴史は暗記するものではなく、推理するところに面白さがあるんです」と説き、生徒に史跡を訪ねさせては、その時代を生きた人々の思いを推理させる。番組は4年前に作られ、今も再放送を重ねている。

 高橋さんの言う通り、まもなく終わる「平成」の時代にしても、庶民の生活感覚は、景気の変動や技術の革新、頻発した災害の中で大きく変わってきた。これから生まれる世代にとっても、過去を推理する力は、自らの今を知る上で欠かせないことだろう。

 平成が終われば、さらに遠のく昭和の時代、日本が統治していた頃の台湾で、歴史推理の手掛かりとなるアンケートがあった。1930(昭和5)年、総督府専売局の台北煙草(たばこ)工場で女性従業員を対象に無記名で行われ、313人が答えた。

 このうち300人が台湾籍で、中国籍は7人、日本籍は6人。日中戦争が起こる前で、大陸と台湾の間でも人の往来が盛んだったことが回答に反映され、当時の庶民の喜怒哀楽が見えて興味深い。

 

 まず「歴史上の人物で偉いと思う人」という問いには、こんな順で答えが返った。

 (1)孔子(2)諸葛孔明(3)明治天皇(4)北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひさしんのう)(台湾で死去した皇族)(5)乃木希典

 さらに「現代の人物で偉いと思う人」の問いには、工場長、昭和天皇、台湾総督、浜口雄幸首相に続く5位に蒋介石を挙げている。蒋介石が中国各地に割拠する軍閥との戦いを終えて「中国統一」を宣言した後のことで、日本が統治する台湾でも漢民族が英雄視していたのが分かる。

 

 暮らしに直結した質問ではもっと生活感が見えてくる。

 

 問い「恐ろしいこと」

 答え(1)暴風雨と洪水(2)近所の火事(3)職場でたばこ横流しの調査があったこと(4)道路を渡る時に自動車が来る(5)地震(6)雷(7)夜に田んぼを歩いていて見知らぬ人とすれ違う(8)殺された人を見たとき(9)チンピラのけんか

 

 問い「愉快に思うこと」

 答え(1)年末のボーナス(2)子供が言うことをよく聞くこと(3)元旦に爆竹の音を聞くこと(4)家庭円満(5)昇給(6)実家に帰る(7)良い行いの表彰(8)子供の成長(9)台湾南部への旅行(10)親友との久しぶりの再会

 

 以上は専売局の内部報からの抜粋だ。台湾の陳柔縉氏が著書「人人身上都是一個時代」(人それぞれに時代があるの意味)で紹介している。歴史推理の心を刺激される好著。邦訳「日本統治時代の台湾」(PHP研究所)もある。=2018/09/27付 西日本新聞朝刊=」

  

 

 

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宗像氏と沖ノ島 [歴史]

 

今も地名に残る宗像氏はWikipediaでは次のように説明されています。

 

「古代より中国や朝鮮との貿易で繁栄した地域で知られ、宗像大社の神領で世界文化遺産の沖ノ島を持つ。飛鳥時代には、宗像大社が九州唯一の神郡に指定されその範囲は東は遠賀川、南は宮若市、西は新宮町に及んだ。戦国時代には宗像大社の大宮司・宗像氏貞が有力な大名として蔦ヶ嶽城(現・城山)に城を構え、遠賀・鞍手を含む全宗像を他の大名(立花道雪や大友氏など)の侵略から護った。」

 

さらに「宗像・沖ノ島と関連遺産群」というパンフには次のように紹介しています。

「古代豪族宗像氏はやがて大宮司家として対外貿易に活躍し、中世まで宗像大社とともに繁栄しました。大宮司家は戦国時代の終わりに断絶しますが、江戸時代以後も社家や値域の人々によって信仰は守られてきました。」

 

歴史の専門家は次のように整理しています。

 

「宗像勢力の成長

 近年の考古学の成果も参照すれば、現在のところ、沖ノ島と宗像の関係については、おおむね次のような変遷が描けそうである。 四世紀後半に各地の首長を率いて朝鮮半島情勢に関与するようになった近畿の王権は、響灘から直接対馬や朝鮮半島へと向かうルート上に浮かぶ沖ノ島に着目し、ここで祭祀を行うようになった。以前から朝鮮半島と交流のあった宗像の首長層も、この祭祀をともなう海上交通にかかわり、朝鮮半島から人や文物を呼び込むようになる。ただ、この時期の宗像は、有力な首長墓も沖ノ島との強い結びつきも明確には確認できず、沖ノ島へ向かういくつかの渡海地の一つにすぎなかったとみるべきである。ところが五世紀半ばになると、宗像地域は、沖ノ島の祭祀の発展と、響灘と博多湾をつなぐ地理的条件によって、王権の注目を集めるようになる。すると宗像では、これに呼応するように沿岸地域の地域連合化がすすみ、王権祭祀と結びついた沖ノ島の祭祀を支える、北部九州でも有数の倭韓交流・交易の担い手として、その勢力を拡大させていったと考えられる。

しかしまだ謎は残る。王権と結びついた宗像勢力は、なぜ五世紀半ばになって急速に力を伸

ばしていったのだろうか。筆者はそこに、以下で述べるように、近畿の王権自体の変化が影響していたとみる。」(『国際交易の古代列島』)

 

世界遺産指定後、どのような動きがあるかはあまり報道されていないように思います。

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糸島半島の役割 [歴史]

 

 

邪馬台国論争で必須の「魏志倭人伝」に関連した話です。対馬・壱岐から唐津に入ります。

 

「「一大率」の役人らは、壱岐から唐津湾に入ってきた魏の使節船を、末慮国の港に迎え、卑弥呼に渡される文書や贈答品を厳重に管理し伝送したという。卑弥呼王権は「一大率」によって、魏との交流を厳しく管理し独占しようとしていた。 港に着いた魏使は陸路、「一大率」のある伊都国、すなわち糸島平野に入ると、ここにしばらく滞在し、次いで博多湾岸の奴国へと向かう。その博多湾岸には、まさに三世紀頃から、糸島を凌駕する国際交易拠点の大集落が形成されていた。その代表的な遺跡である福岡市の西新町遺跡では、三世紀から四世紀、近畿系、山陰系、吉備系、北部九州系の人々と朝鮮半島の渡来人とが混住し、鉄交易なども行った、倭・韓の国際交易の一大拠点としての様相が確認され ている。博多湾は卑弥呼の頃から、日本海側、瀬戸内海側に点在する同時代の拠点集落ともつながり、東アジア海域と列島沿岸海域をつなぐ交差点、交易拠点として発展していったのである(菱田哲郎)

ここで注目されるのは、玄界灘に突きだした糸島半島が、国際交易港の博多湾と外交の港で

ある唐津湾を分かつ半島で、伊都国はその双方に通じていた点である。伊都国の「一大率」は、この二つの重要な港湾地帯を管理するための官だったとみて、まず間違いない。」(『国際交易の古代列島』田中史生)

 

伊都国・奴国のそれぞれの役割が解明されるでしょうか。

 

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郷土の幕末の志士を知る [歴史]

 

 

葉室麟『

影踏み鬼 新撰組篠原泰之進日録 (文春文庫)

影踏み鬼 新撰組篠原泰之進日録 (文春文庫)

  • 作者: 葉室 麟
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2017/10/06
  • メディア: 文庫

新撰組篠原泰之進日録』を読みましたが、現在の筑後市水田の志士・淵上郁太郎出身のことを知りました。葉室氏の記述からです。

 

「『いま、京の六角獄舎に長州の元奇兵隊総督赤根武人と久留米藩脱藩の淵上郁太郎という名だたる尊攘が囚われております。これら両人を広島へ帯同いたして長州の内情を探らせたならば、 随分とお役に立とうかと存じます』 となめらかな口調で言った。 近藤はわずかに眉根を寄せて考えながら、 「捕えた者を密偵につかおうというのか。しかし、その者たちを思惑通りに動かすことができる かな」 と危ぶんだ。伊東は微笑して言った。 「赤根武人は学問のある男だと聞いています。それがしが理のあるところを説きましょう。また 淵上郁太郎は同じ久留米藩の篠原君が話してくれます。」

本の主人公は新撰組篠原泰之進です。

続けて

「一方、淵上郁太郎は久留米藩領下妻郡水田村の獣医の二男として生まれた。長じて医師を開業 していたが、志を立て江戸に出ると大橋前庵に学んだ。その後、帰国して武士身分に取り立てられ、藩校明善堂の教授に挙げられた。このころから真木和泉と親しく交わり、尊撰派の活動に身を投じるようになった。」

私が育ったころの地名は八女郡水田村で村役場は水田天満宮がある水田地区でした。下妻郡は下妻という集落や小学校名として残っていました。

ネットの人名資料によれば

淵上郁太郎(読み)ふちがみ いくたろう.

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

18371867 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。

天保(てんぽう)81020日生まれ。弟謙三とともに大橋訥庵(とつあん)にまなぶ。文久元年筑後(ちくご)(福岡県)久留米藩(くるめはん)藩校明善堂教官となる。禁門の変後薩長和解につとめ,慶応元年大坂で幕吏に捕らえられる。釈放後幕府内通をうたがわれ,慶応3218日伊東甲子太郎(きねたろう)らに暗殺された。31歳。名は祐広。変名に井村簡二,林田勘七郎など。」

 

主人公の篠原泰之進についてはWikipediaに掲載されています。

 

「篠原泰之進

篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政111116日(18281222日) - 明治44年(1911年)613日)は、江戸時代後期の志士。新選組隊士(諸士調役兼監察方及び柔術師範)、御陵衛士。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内(はた かわち)。維新後は、秦林親(はた しげちか)と改名。

筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市浮羽町高見)の豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。」

以下の経歴は小説で確認ください。

 

淵上郁太郎の葉室氏の記述からの転載です。

 

「大坂町奉行所に捕えられたとき、赤根は柴屋和平、淵上は林田長兵衛と名乗って大坂中之島の 島津屋藤蔵方に潜伏していたという。 泰之進はかねてから六角獄舎に入れられている尊攘派浪士を気にかけていた。赤根武人と淵上郁太郎が囚われたと聞いて、何とか救出する手立てはないか、と考えていたのだ。」

最期は次のように殺されます。

「このころ(慶応3年/引用者)九州に戻っていた淵上郁太郎が筑後柳川の山中で尊壌派によって殺された。囚われて いた六角獄舎から出されて、近藤らの長州入りに協力したため、裏切り者として殺害されたのだ。」

新撰組も内部での殺し合いがいかに凄まじかったかを葉室氏は言いたかったのかもしれないと思うほど描かれています。

 

柳川の山中というのは不明です。今の柳川市周辺にはありませんので、柳川藩のどこかというと、瀬高町辺りしか浮かんできませんがどうでしょうか。

 


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「8世紀の迎賓館はどこだった?」 [歴史]

 

 

鴻臚館が迎賓館だったというのが定説ですが、8世紀は違ったのではないかという意見が出されています。それは二つの地域の史跡の役割が分からないためです。ひとつが西鉄二日市駅の太宰府線の北側に広い敷地が何もない状態になっています。「客館」跡とされていますが詳しくはまだ分かっていないと思います。もうひとつは、大宰府政庁跡の西側の蔵司地区の発掘が進んでいますが、そこの大きな施設がどのように使われたかという議論の一つとして迎賓館説が出ているという。

 

「8世紀の迎賓館はどこだった?

鴻臚館ではなく太宰府か

本格的な発掘調査から昨年で30年となった鴻臚館(福岡市中央区) は「古代の迎賓館」と表現される。迎賓館とは国賓が宿泊し、もてなしの宴が開かれる場所だ。だが、朝鮮半島を統一した新羅との外 交が盛んだった8世紀、鴻臚館(当時の名称は筑紫館)で使節を饗応した記録はない。使節をもてなしたのは、実は大宰府だった一。そんな見方が近年強まっている。

 

大宰府の外交施設は2011年に見つかった「客館」跡が挙げられる。8世紀半ばから9世紀半ばにかけての南北2430M東西約9M の大型掘立柱2棟は、大宰府政庁から南に1キロ離れている。石見清裕・早稲田大教授(中国史)によると、時代が並行する中国・唐では都の長安城の客館で大臣クラスによる外交が行われた可能性があり、大宰府の客館も宿泊だけの施設だったとは考えにくい。 だが、唐では皇帝が出席する宴には使節が宮殿に出向く。大宰府に天皇はいないが「朝鮮半島諸国・渤海に朝貢を求め、国際的に認めさせようとする帝国意識」(岩永省三・九州大総合研究博物館教授の論文「日本における都城制の受容と変

容」)を持った時期の日本が儀礼の宴で「格下」の使節を訪ねる形を取るのか。 注目されるのが政庁西側の蔵司地区の中でも高い場所にある大型建物(8世紀前半から半ば)だ。柱座を持つ礎石があり南北に庇が ある東西37M南北13Mで、平面は大宰府政庁の正殿を上回る。発見時は「大宰府の財政をつかさどる中枢の役所」とされたが「饗宴の場」という見方もあった。(以下略)」(2018323日西日本新聞)

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大野城がつくられた [歴史]

 

 

私が住む地名は大野城市。名前の由来は市の東部にある朝鮮式山城の名前からとったものです。山城と大宰府の防御施設としての水城が百済亡命者のもとで築造されたとされています。665年完成したとされますが、白村江の前に、斉明天皇(女帝)は、防衛のために九州に来て、朝倉市に住まわれたというが場所が特定はまだされていないと思います。百済の崩壊が決定的になったのが白村江の戦いとされています。

 

「敗因をめぐって

白村江の戦の敗因として、小出しに兵を送るという戦略の欠陥、豪族軍と国造軍の寄せ集めに過ぎないという軍事編成の未熟さ、いたずらに突撃をくりかえすという作戦の愚かさ、そして百済復興軍の内部分裂などが指摘されている。それはたしかに、五世紀から六世紀にかけて、同様の戦略でそれなりの成功を収めてきたという過去の経験に依存し、中国王朝の直接介入という今回の状況をじゅうぶんに考慮していないととからくる認識不足の結果であった(森公章『「白村江」以後』)。」(『戦争の古代史』)

 

「いたずらに突撃を繰り返す」というのは先の戦争にもみられたことではないでしょうか。

何か、同じ過ちを繰り返してきたのかと思いたくなります。

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大宰府はまだ明らかにならず [歴史]

 

 

「ニュース川柳

・米朝の駆け引き日本指くわえ

・安倍首相「いいね」コメント幕引けず

・気が付けば潰されたのはボクでした

・日大のやらなきゃ良かった保身会見  」(2018528日西日本新聞)

 

大宰府と言えば天満宮を想起される方が多いかと思いますが、「遠の朝廷」と呼ばれた政庁跡・条坊は明らかになっていません。

 

「大宰府史跡発掘調査50

「外郭線」に注目 「条坊」なお諸説

大宰府史跡の発掘調査が始まって本年度で50年となり、九州歴史資料館(福岡県小郡市)では記念の特別展「大宰府への道」が開かれている。秋には九州国立博物館(同太宰府市)でも 特集展示があり、シンボジウムや講演会など関連行事が相次ぐ。福岡県が中心となった半世紀にわたる調査で 遠の朝廷 大宰府の何が解明され、何が課題に残っているのかを整理した。

 

2度建て直し

大宰府というと、まず紹介されるのが中枢である 「政庁跡」だ。以前から建物跡があることは分かっていたが、掘っ立て柱建物で始まり、8世紀(Ⅱ)に礎石建物になり、さらに10世紀(Ⅲ)に建て直されていることが調査が始まってすぐに分かった。期は当初701年の大宝律令がきっかけと考えられていたが、調査の進展で平城京成立(710)を受けての 建築ということが通説となっている。期は藤原純友の乱で炎上(941)したことが契機だと考えられている。文献資料でしか分からなかった「蔵司」や「匠司」などの各役所の姿も、発掘調査で遺構が確認されたり、関連する記述がある墨書土器や木簡が見つかるなどして少しずつ判明してきた。出土した木簡や墨書土器からその性格の解明も進められている。「逆凸字型をしている」とされていた官庁街は近年長方形であった可能性も指摘されるようになった。九州歴史資料館の松川博一学芸調査室参事補佐は「地方国府を大きくした構成ではなく、中央の 機構を小さくしたものだったと思われる」と話す。

 

鏡山説一致せず

街を方形に区切る都市計画「条坊」は、鏡山猛・九州大名誉教授が文献資料や 政庁跡、観世音寺などを分析して一辺約108メートル四方で南北辺条東西各12坊の説 を戦前に示し、長年主流と なっていた。しかし、調査 が進むにつれ、実際の遺構 に一致しないことが判明し た。「条坊はなかった」という説まで含め数々の説が出されたが、現在は太宰府.市教委の井上信正氏が提示する一辺約90メートル南北22条東西8坊というプランが有力視されている。ただ、井上説でも政庁や観世音寺の中心線が条坊の道路の中心からずれる。これをどう説明するか。井上氏は「条坊が先にあり政庁などが後からできた。地形的な制約があってずれが生じた」と話すが、十分な裏付けはまだない。大宰府は外交国防を担う機関と考えられてきた。調査によって水城西門に博多 湾岸の鴻腫館と結ぶ官道と 条坊内に客館があることが 分かり、8世紀には外国の 使節が大宰府に来ていたことが明らかになってきた。

使節をもてなす宴も開かれたはずだが、場所は諸説あって答えは出ていない。(以下略)」(同前)

 

最近でも、西鉄二日市近くの客館跡が福岡市の鴻臚館とどのような役割分担があったのか。

2016年に同県筑紫野市の前畑遺跡で見つかった土塁は防衛施設なのかどうかなど、たくさんの未解明部分があるという。

 

 

 

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卑弥呼の二面性 [歴史]

 

 

今もって卑弥呼がどこで活躍したか決着がつきません。近年、関西説が強いように思いますが・・・。

 

「卑弥呼の二面性

邪馬台国の女王卑弥呼は、二つの顔をもっていた。これは戦後の歴史学なかでも日本古代中  世史研究に大きな影響を与えた石母田正の言葉である。 石母田によれば、その一つは、宮殿にこもり、神と交信しながら政治を行うシャーマンとしての「未開」の風貌である。これは特別な禁忌に緊縛されて共同体から隔離されることで、共同体を統合し代表する「王」たりうるという、「未開社会」一般にみられる首長の姿である。 そしてもう一つは、「親魏倭王」として現実の国際社会の変化に機敏に対応し、外交を主導する「開明」的な風貌である。この二面性は、共同体を代表する首長が、高度に発達した地域と対外関係を結ぶことによっておこる。つまり、卑弥呼のシャーマンとしての「未開」の風貌は、各種の禁忌で秩序が維持される倭人社会内部の後進的な社会構造に規定されている。一方、外交を主導する「開明」的な王の顔は、国際社会の文明的な側面に規定されている。ここに石母田は、共同体を代表する王=首長の姿を見出した。」(『国際交易の古代列島』)

 

卑弥呼もまた時代の要請に応えたのでしょうか。今の政権は何に応えようとしているのか。

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馬はムマ [歴史]

 

 

乗用の馬がいなかったが高麗から導入されていったという。

 

「歩兵と騎兵との戦力差は格段のものがあり(一説には騎兵一人につき歩兵数十人分の戦力であるという)これまで乗用の馬を飼育していなかった倭国では、これ以降、中期古墳の副葬品に象徴されるように、馬と騎馬用の桂甲(けいこう・鉄や革でできた小札を縦横に紐で綴じ合わせた大陸の騎 馬民族由来の軽い甲)を積極的に導入していった。 なお、「馬」を「うま(むま)」と訓じるのは、中国語の「マ」(もしくは「バ」)が転じたものである。つまり倭語にはあの動物を表わす言葉がなかったのである。ほとんど見たことも、なかったのであるから、それも当然である。また、馬のことを駒というのも、「高麗(こま)」 つまり高句麗の動物という意味なのであった。 王権が成立して間もなく、支配体制も確立していないこの時期の海外派兵は、いかにも性急に過ぎる感が強い。」(『戦争の日本古代史』倉本一宏)

 

似たような話で「カチガラス」は佐賀藩と柳川藩始まりで高麗から持ち込まれたという。江戸時代には「朝鮮がらす」「高麗がらす」と言ったそうですが、筑後地方では「コウゲガラス」と呼んでいました。古くからの朝鮮半島との交流を知ることができます。

 

「世の中は益々末期現象を見せてきています。でも人間はしぶといので、どんな悪条件の中でも生き延びてゆくのではないでしょうか。瀬戸内寂聴」(『若き日に薔薇を摘め』)

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