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「二つのダザイフ」 [歴史]

 

 

 

2019419日西日本新聞からです。

 

「「太宰府」と「大宰府」

表記の混乱?奈良時代から

新元号「令和」のスタートまで2週間を切った。出典となった万葉集所収の和歌を大伴旅人(665―731)が 詠んだ舞台が福岡県太宰府市。市内には大宰府政庁跡、太宰府天満宮など「大」「太」 の表記が併存する。二つのダザイフが生まれたのはなぜ?

Qどう区別するの?

A同市教育委員会文化財課によると「古代律令時代の役所、及びその遺跡については『大宰府』、中世以降の地名や天満宮は『太宰府』」と使い分けている。新聞の表記もそれに準じているんだ。

Qもともとは「大宰府」だったんだよね。

A「太宰府市史通史編 I」げによると、「大宰府」の 文献初登場は日本書紀の天智天皇10(671)1110日 の条。白村江の戦い(663 )などの緊迫した東アジア 情勢を受け「対馬国司が唐の使者などの来朝を筑紫大宰府に報告した」という記録がある。古代の大宰府は九州を管轄し「大宰之印」という印影付き文書も残っている。(以下略)」

 

旅人邸跡とされると政庁跡西北の坂本八幡神社については根拠がないという。要するに未定だということです。情報が独り歩きしているようです。


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