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支えてあげなくちゃではダメ? [障がい者問題]

 

 

私の住む地域でも電車やバスの駅で白杖をもった方が利用されています。ラッシュ時にも見かけるので働いている方が増えているのでしょうか。整列乗車が徹底しているわけではありません。そこで、電車の乗り場と実際の電車の停止位置がずれていると、「誘導してあげなくちゃ」という緊張感が生まれてきます。

 そこに次のような指摘にたじろぎました。

 

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』という本で次のように指摘しています。

 

「情報ペースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされてしまいます。そこに生まれるのは、健常者が障害者に教え、助けるというサポートの関 係です。福祉的な態度とは、「サポートしなければいけない」という緊張感であり、それが まさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。 もちろんサポートの関係は必要ですが、福祉的な態度だけでは、「与える側」と「受けとる側」という固定された上下関係から出ることができない。それではあまりにもったいないです。お互いの失敗を笑い合うような普通の人間関係があっていいはずだし、そのためには、話そうと思えばお互いの体について、障害について、恋愛事情を打ち明け合うようなノリで話し合えるような関係があっていいはずです(繰り返しますが、福祉的な態度とは、福祉に関わる人の態度という意味ではありません。実際の福祉の現場には、サポートだけではない、和気あいあいとした関係もたくさんあるはずです)」

 

方の力を抜いた関係でありたいと思いました。

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センター試験に障害者に配慮を [障がい者問題]

 

 

「〇日本人は無宗教だとよく言われます。結婚式をキリスト教の教会であげて、神社に初詣に行って、 お寺にお墓参りする民族です。宗教的なことは無頓着ですが、宗教に代わるルールが世間です。」(『幸福のレッスン』鴻上尚史)

 

だから世間の同調圧力に弱いのでしょうか。

 

障害者権利条約を批准した国でどう判断するかという問題ではないかと思いました。

 

「(声)聾の受験生に発音問題免除を 55歳 2018827日朝日新聞

 公立高校普通科で3年の担任をしています。生徒たちは進路達成に向け猛勉強をしていますが、その中に聾唖(ろうあ)の生徒がいます。彼女は日本手話を第1言語とし、支援員や職員・生徒の支援のもと他の生徒と同じように授業や部活を行っており、大学入試もセンター試験を含めて受験を考えています。

 センター試験では、英語筆記問題に発音・アクセントが出題されます。私は、聴力がなく発話もできない彼女の学力が、公平に判定されないと考え、大学入試センターに、免除の要望を本人ともども出しました。

 ところが「検討しなければならない重要な事項」と認めて下さったにもかかわらず、実施要項の見直しが必要との理由で、「次回の試験では要望には応えられない」とのお返事でした。

 センター試験は一度切りの真剣勝負。1点差で合否が決まる場合もあります。「聞く」「話す」など英語4技能が重視される中で、少数かもしれませんが聾唖の受験生の存在も忘れないで頂きたいのです。センター側が無理なら、せめてセンター試験を利用する各大学に、ハンディを持つ受験生への配慮をお願いできないでしょうか。」

 

明らかに問題があるわけです。細かい規則をつくるのには時間がかかるという判断だと思いますが、暫定対策などやれることはあると思います。

 

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私が迷ったとき [障がい者問題]

 

 

私が視覚障害者に出会ったときに迷ったこと。電車ホームの降車口表示位置とずれて止まり、扉を探している様子なのでどうしようかと思いましたが、場所がずれていますと体を触ったことです。声はかけましたが驚かれたのではないかと思いましたし、危険な行為だったかもしれないと。

 もうひとつは歩行者信号に青になったときの音声がない信号機でした。私が渡り終わっても立ち止まっています。「青ですよ」と叫んだのですが、戻って介助すべきではなかったかと反省しています。

参考までに引用しました。

 

「コラム 2018822日読売新聞

白い杖を持った人が道で困っている どうすればいい?

 ヨミドクターをご覧のみなさん、はじめまして。サービス介助士インストラクターの冨樫正義といいます。サービス介助士とは、主にサービス現場で障害のある方や高齢な方などが、何かお手伝いが必要な際に、さっとお手伝いができるように、基本的な介助技術を学んだ人です。駅のホームで介助をしている駅員の方々もサービス介助士を取得していることが多いので、実はみなさんもその活躍を見たことがあるかも知れません。

 

 1回目のテーマは、まさに駅などで見かける白い杖(つえ)(白杖と書き、はくじょうと読みます)を持った視覚に障害のある人へのお手伝い方法です。

 

 最近は駅の構内で、視覚に障害のあるお客さまは駅員が介助する旨の放送が流れたり、鉄道各社の取り組みによる「声かけ・サポート」運動のポスターが貼ってあったりします。でも、「お手伝いしたいとは思うけれども、どうすればいいか分からない」という方も多いのではないでしょうか。

 

視覚障害者=全盲 とは限らない

白い杖を持っている人には、全盲の人も弱視の人もいます

 ところで、どのような方が白杖を持っていると思いますか。実は道路交通法に記載があります。

 第14条では、「目が見えない者(目が見えない者に準ずる者を含む。)は、道路を通行するときは、政令で定めるつえを携え、又は政令で定める盲導犬を連れていなければならない」とあります。つまり、視覚に障害のある人は道路交通法で、白杖を持ち歩くか、盲導犬を連れていることが義務付けられているのです。また、「目が見えない者に準ずる者を含む」とあるように、全く見えない全盲の方に限らず、弱視の方も白杖を持ちます。

 視覚に障害のある方全体では、全盲より弱視の方が多い。つまり、白杖を使っているからといって全く見えていないとは限らないのです。この点を理解することで、その方が必要とするお手伝いをすることができます。(以下略)」

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今も続く [障がい者問題]

 

 

35年ほど前だったと思いますが手話否定の聴覚障害学校のことを批判する声があると聞いたことがありました。その理由がどこにあったのかよく理解していませんでした。山本おさむ氏は次のように説明しています。

 

「当時の社会は、障害者を全くの無能者と見なし『社会のお荷物』「穀つぶし」『前世の因縁』など言って公然たる差別が横行していた。口話主義者はこのような障害者観に反旗をひるがえすことはなかった。 社会と同じように、ろう者を正常ではない者と見たのである。そのうえで、正常な(健聴者の)コミュニケーション方法である、喋る、聴く(かわりに読唇)という方法をろう児に徹底し、もって社会の蔑視を緩和し、ろう児を健聴児に近づけ、正常化することに よって社会に受け入れてもらおうとしたのである。手話に対する嫌悪は、そのまま障害者に対する嫌悪であり、それは意識するしないにかかわらずこのような障害者観に基 づいていると言わざるを得ない。 手話・口話論争は単に教育方法の論争にとどまらず、実は両陣営の障害者観の戦いだった、と私は理解している。」(「どんぐりの家」のデッサン)

 

「穀つぶし」は「生産性がない」との言葉に変わり、陰湿な排除の流れがあきらかになっています。障害者観の戦いは続いていると思います。

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法律の問題以前に [障がい者問題]

 

 

「熱海の教育施設、聴覚障害者100人の宿泊断る7/10() 22:28配信 読売新聞

 静岡県熱海市の青少年教育宿泊施設「姫の沢自然の家」が今年1月、県聴覚障害者協会から約100人の団体宿泊が可能かどうか問い合わせを受けた際、「安全を確保できない」として断っていたことが、協会などへの取材でわかった。2016年施行の障害者差別解消法は、障害を理由にした差別を禁止。障害に応じた合理的配慮を行うよう求めており、施設を保有する市教委は「施設のスタッフが法律を知らなかった。断ってはならなかった」として協会に謝罪した。(以下略)」

  市教委は周知を行ったのでしょうか。差別する意図はなかったというが「差別」についての理解を教委もしていないのでは。

 

こんな投稿もありました。

 

「みんなの広場  障害者にやさしくしてほしい=67歳  毎日新聞201875

 1年前、脳梗塞(こうそく)を患った夫は、今、障害者手帳を交付してもらい、社会復帰を目指しています。 夫は、いろいろな場所に出掛けています。私が運転する車を駐車する際は、障害者枠に入れさせてもらっていますが、元気な若者の車が駐車していて困ることもあります。 また、夫がゆっくりつえをつきながらバスや電車に乗る際、シルバーシートを高校生らしい集団が占めていることもありました。スマホに夢中になったり、話に盛り上がったりしているので、年寄りが水を差すのは気が引けて、声をかけづらく、黙って夫を立たせていたこともありました。トラブルになるのが嫌いな夫も、我慢していたようです。しかし、まひの残る左足で立ち続けるのはつらいようでした。 (以下略)」

 

まだまだ障害者や高齢者にっては厳しい社会ですね。

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「生まれてきてよかったと思うか」と問う社会 [障がい者問題]

 

 

高校野球は予選大会が始まっています。よく熱中症にならないものだと思います。今年は100回大会で甲子園出場校も増え、56校になるという。だが、100周年にならない高校もあります。漫画『遥かなる甲子園』は実際のモデルがありました。http://deafcomic.jp/Kosien/Kosien2.html

「マンガ「遥かなる甲子園」

ろう学校の高校野球の話で、実際にあった話を元にしている。

一九八一年(昭和五十六年)に沖縄の北城ろう学校で野球部を創立。

 沖縄では風疹の流行によって障害を持って生まれた風疹障害児が多発した。北城ろう学校はこの風疹障害児のために建てられた学校で、単一学年しかない。風疹障害児が高校を卒業すると同時に廃校となった。この高校の三年間しか存在しなかった高校野球部。

 野球をやりたいというろう学校の生徒たちの望みは、しかし、高校野球連盟によってはばまれる。高校野球連盟に加盟できるのは普通校のみで、ろう学校は認めない、とされたのだ。 」

 

結論から言えば実際の試合をやってみて問題はないことになり参加が認められています。

漫画の作者山本おさむ氏の「『どんぐりの家』のデッサン」によれば次のような思いがあったという。

 

「沖縄の聴こえない子供たちや家族もまた、高野連加盟拒否という『ろうあ者問題』とつきつけられ、苦悩していたのである。『風疹聴覚障害教育終了記念誌』のなかに収録された手記に、母親が聞こえない自分の子供に対して『生まれてきてよかったと思うか』と問う場面が描かれている。何ということなのだろう。母親が我が子にそのような問いを発する・・・そうさせるものは一体何なのであろう。

私は地の底にたたき客とされるような感じがした。私の描こうとする物語は、もはや野球のことだけでは済まされない。その物語の背後で、障害者であるが故に差別を受けるこうした人々が「俺たちがいるのや。俺たちのことを書け」と声をあげているような気がした。」

 

多くの親が抱えてきた問いだと思います。ですが、それをバネにして施設づくりなどに励んでいるのだと思います。それは、本来は国が率先してやるべきことだと思います。そんな社会であって欲しい。それなのに不良な遺伝子だとして不妊手術を国が法で定めていて社会も容認してきた。そのことが差別の根底にあるのだと思う。

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「合理的配慮を」 [障がい者問題]

 

 

「ニュース川柳

・責任を取るとはこうと梨田さん

・モリカケをずらし北向く安倍総理

・復興のつち音響くゴットンと

・フクシマに遠いとこから再稼働」(2018622日西日本新聞)

 

梨田さんに倣って欲しい人が数多く・・・。

差別解消法と条例の力を知りました。足りない部分があれば根気強く要望していきましょう。

 

「西鉄オープントップバス

電話予約聴覚障害者に壁

福岡市「合理的配慮を」

福岡市街地の観光地を巡る屋根のない2階建ての「オープントップバス」の聴覚障害者の乗車予約方法を巡り、市がバスを運行する西日本鉄道に対して改善を求めていることが分かった。予約は電話か市役所の窓口に限られ(略)

市は近く施行予定の障害者差別解消の推進条例で、事業者の努力義務とする「合理的配慮」に反する恐れがあるとみている。市ろうあ協会によると、 聴覚障害のある市内の50代 男性が昨年、窓口を訪れて 予約をしようとしたが、希望日は満席で断念。「電話が使える人と対等に予約できるようにしてほしい」と訴えている。

市の要求に対し西鉄は「聴覚障害者の方の排除は意図していない。お客さまの利便性向上のため、ネット予約の導入を前向きに検討しているとしている。(以下略)」(同前)

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根深いもの [障がい者問題]

 

 

旧優生保護法は多くの障害を遺伝によるものと決めつけて断種した。今の障害者差別の根の深さはここから来ているのではないか。こんな指摘がありました。

 

「近代史・現代史から何を学ぶか  木太直人NPO法人日本障害者協議会理事

旧優生保護法の下で障害者に対する強制不妊手術が行われてきた問題が俄かにクローズアップされています。優生保護法から母体保護法に改正されて22年。私たちはいったい何をしていたので しょうか。かつて精神医療の現場にいた私も、この問題にほとんど関心を寄せずにきたことを大変 恥ずかしく思います。 優生保護法は1948年の第2回国会で成立しています。当時の国会会議録を見ると、参議院厚生委員会の審議において発議者である谷口弥三郎(参 議院議員、後に日本医師会会長)は、法案の提案 理由を次のようもこ述べています。 「日本は敗戦により領土の4割強を失い、狭い国土の上に八千万の国民が生活しており、食糧不足が 当分持続する。すでに人口が飽和状態となっており、政治的な対処の一つとして産児制限が考えられるが、注意しないと子供の将来を考えるような比較的優秀な階級の人々が産児制限を行い、無自覚者や低脳者(原文ママ)などはこれを行わないため、国民素質の低下即ち民族の逆淘汰が現われてくるおそれある。現に我が国ではすでに逆淘汰の傾向が現われ始めている(精神病患者の増加、先天性失明者の 増加、浮浪児の低脳児割合の増加を例示)。従って、先天性の遺伝病者の出生を抑制することが必要である。」 (筆者において要約) 日本障害者協議会「すべての人の社会」2018.5月号」という。医師会のトップからしてこのレベルです。注意しないといけないのはこの法律は1996年まで改正されなかったということです。国際障害者年は1981年です。それでも問題にならず放置されていたことに忸怩たるものがあります。責任は政府ですが、問題としてほとんど取り上げなかったことです。それは、優生思想を育む土壌だったのです。

 

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「私に悲壮感は無い」 [障がい者問題]

 

 

新聞に「障害を越え・・・」個展を開いているという記事がありました。障害は越えなければならないのかといつもの癖が出て血圧が上がりそうです。血圧と言えば年末から年明けても血圧が高止まりしたままでした。こんなに長く続いたことがなく、黒酢・オリーブオイルなどいろいろ試してみましたが下がりません。ある日、テレビで手のツボを押さえるだけで改善するというのをちょこっと見ましたので、よく分からないので本を買ってきてやったところ下がり始めました。他の要因と重なっているかもしれませんので確信はもてませんが。筋肉痛などは続いていますが・・・。

 

苦闘が見えるような投稿です。

 

「(ひととき)一回りして、幸せ 2018217日 朝日新聞

   主婦14年目の私。夫と子ども2人に恵まれ、とても幸せな毎日を送っている。しかし、ここにたどり着くには少し時間がかかった。

 8年前に、想像もしなかった出来事に遭遇する。次男が1歳を過ぎるころ、重度の難聴と知的障害があることが判明したのだ。やり場の無い気持ちを抱え、泣いてばかりだった。生活は一変し、療育のための通院が生活の中心となった。私は次第に、心と体のバランスが取れなくなり、度々めまいをおこした。睡眠障害にもなった。

 何年かそんな生活が続き、心配する夫の勧めで、スポーツジムへ通い始めた。はじめは苦痛だったが次第に友達もでき、雰囲気にも慣れた。

 不思議だったが、体を動かすことで、心も元気になることを実感した。少しずつ次男も体力が付き始め、私に少し余裕ができた。徐々に私は本来の自分を取り戻し、笑顔が増え、新しいことにもチャレンジできるようになった。

 母としてだけでなく、人として大切なことを教えてくれた次男。今では全ての出来事に感謝している。今、私に悲壮感は無い。一回りして、心からの幸せをかみしめている(愛媛県 主婦 40歳)」

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問いかけられているもの [障がい者問題]

 

 

「『相模原事件を考えるシンポジウム』報告・だれもが安心して暮らせる大分県をつくる会

大分障がいフォーラム実行委員会・2017729日に大分市のホルトホール」で弁護士の徳田氏は次のように指摘しています。

 

「徳田靖之

私は、この事件は「生きるに値しないいのちは奪ってもいい」という考え方で起こされていることに問題があると思っています。私たち人類の歴史の中で、「生きるに値しない命がある」という考え方、あるいは「生きるに値しない命は奪ってもいい」という考え方はいつ登場してきたのか。それはどんな流れになって、今日の事件につながったのかということを考える必要があると思うんです。(略)

こうした形で受け継がれてきた優生思想が、法律では姿を少しずつ消して行くという過程で出てきたのは、今度は不幸な子ども達の命を奪うことは許されるという考え方です。

その最初の事件として有名なのが、ベルギーで起きたサリドマイドの赤ちゃんを生まれて1週間にそのお母さんが殺してしまうという事件です。(略)

こういう形で、生きるに値しない命を奪うことを許容する考え方は二つに分類することができると思います。

一つは、そういう命は社会にとってどういう意味があるのかということを問いかけようとする論理。社会にとって重い障がいを持っている命、その人が生きるということがどういう意味があるのかということを問い詰めていく。それは迷惑をかけるだけではないのか、どんな役に立っているのか、という価値基準、物差しをあてはめて、社会にとっての意味を問い詰めていくという論理です。

もう一つは、その人にとって幸せかどうかという意味を問い続ける。そういう論理が、私たちのこのいまの社会においても、生きるに値しない命とそうでない命を選別する考え方として、いまにつながっているのではないかと私は思うわけです。(一部引用)

 

指摘の通りだと思いますが、クローンの誕生など科学の「進歩」「退化」は急速に進んでいます。技術の進歩により産むことの自由は保障され、選別されるでしょう。すると劇的な変化が社会に産まれない限りは選別は進みます。旧優生保護法による不妊処置がそんなに遠くない時期まで実施されていたわけです。裁判が始まりましたが、この問題に正面から裁判所は向き合うのでしょうか。

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