SSブログ

糸島半島の役割 [歴史]

 

 

邪馬台国論争で必須の「魏志倭人伝」に関連した話です。対馬・壱岐から唐津に入ります。

 

「「一大率」の役人らは、壱岐から唐津湾に入ってきた魏の使節船を、末慮国の港に迎え、卑弥呼に渡される文書や贈答品を厳重に管理し伝送したという。卑弥呼王権は「一大率」によって、魏との交流を厳しく管理し独占しようとしていた。 港に着いた魏使は陸路、「一大率」のある伊都国、すなわち糸島平野に入ると、ここにしばらく滞在し、次いで博多湾岸の奴国へと向かう。その博多湾岸には、まさに三世紀頃から、糸島を凌駕する国際交易拠点の大集落が形成されていた。その代表的な遺跡である福岡市の西新町遺跡では、三世紀から四世紀、近畿系、山陰系、吉備系、北部九州系の人々と朝鮮半島の渡来人とが混住し、鉄交易なども行った、倭・韓の国際交易の一大拠点としての様相が確認され ている。博多湾は卑弥呼の頃から、日本海側、瀬戸内海側に点在する同時代の拠点集落ともつながり、東アジア海域と列島沿岸海域をつなぐ交差点、交易拠点として発展していったのである(菱田哲郎)

ここで注目されるのは、玄界灘に突きだした糸島半島が、国際交易港の博多湾と外交の港で

ある唐津湾を分かつ半島で、伊都国はその双方に通じていた点である。伊都国の「一大率」は、この二つの重要な港湾地帯を管理するための官だったとみて、まず間違いない。」(『国際交易の古代列島』田中史生)

 

伊都国・奴国のそれぞれの役割が解明されるでしょうか。

 

008.JPG

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

この国を襲うニヒリズム遍路道も ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。