郷土の幕末の志士を知る [歴史]
葉室麟『
―新撰組篠原泰之進日録』を読みましたが、現在の筑後市水田の志士・淵上郁太郎出身のことを知りました。葉室氏の記述からです。
「『いま、京の六角獄舎に長州の元奇兵隊総督赤根武人と久留米藩脱藩の淵上郁太郎という名だたる尊攘が囚われております。これら両人を広島へ帯同いたして長州の内情を探らせたならば、 随分とお役に立とうかと存じます』 となめらかな口調で言った。 近藤はわずかに眉根を寄せて考えながら、 「捕えた者を密偵につかおうというのか。しかし、その者たちを思惑通りに動かすことができる かな」 と危ぶんだ。伊東は微笑して言った。 「赤根武人は学問のある男だと聞いています。それがしが理のあるところを説きましょう。また 淵上郁太郎は同じ久留米藩の篠原君が話してくれます。」
本の主人公は新撰組篠原泰之進です。
続けて
「一方、淵上郁太郎は久留米藩領下妻郡水田村の獣医の二男として生まれた。長じて医師を開業 していたが、志を立て江戸に出ると大橋前庵に学んだ。その後、帰国して武士身分に取り立てられ、藩校明善堂の教授に挙げられた。このころから真木和泉と親しく交わり、尊撰派の活動に身を投じるようになった。」
私が育ったころの地名は八女郡水田村で村役場は水田天満宮がある水田地区でした。下妻郡は下妻という集落や小学校名として残っていました。
ネットの人名資料によれば
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
1837-1867 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
天保(てんぽう)8年10月20日生まれ。弟謙三とともに大橋訥庵(とつあん)にまなぶ。文久元年筑後(ちくご)(福岡県)久留米藩(くるめはん)藩校明善堂教官となる。禁門の変後薩長和解につとめ,慶応元年大坂で幕吏に捕らえられる。釈放後幕府内通をうたがわれ,慶応3年2月18日伊東甲子太郎(きねたろう)らに暗殺された。31歳。名は祐広。変名に井村簡二,林田勘七郎など。」
主人公の篠原泰之進についてはWikipediaに掲載されています。
「篠原泰之進
篠原 泰之進(しのはら たいのしん、文政11年11月16日(1828年12月22日) - 明治44年(1911年)6月13日)は、江戸時代後期の志士。新選組隊士(諸士調役兼監察方及び柔術師範)、御陵衛士。幼名は泰輔、変名を篠塚友平、秦河内(はた かわち)。維新後は、秦林親(はた しげちか)と改名。
筑後国生葉郡高見村(現在の福岡県うきは市浮羽町高見)の豪農および石工業者である篠原元助の長男として生まれる。幼時より武芸を好み、久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を学ぶ。」
以下の経歴は小説で確認ください。
淵上郁太郎の葉室氏の記述からの転載です。
「大坂町奉行所に捕えられたとき、赤根は柴屋和平、淵上は林田長兵衛と名乗って大坂中之島の 島津屋藤蔵方に潜伏していたという。 泰之進はかねてから六角獄舎に入れられている尊攘派浪士を気にかけていた。赤根武人と淵上郁太郎が囚われたと聞いて、何とか救出する手立てはないか、と考えていたのだ。」
最期は次のように殺されます。
「このころ(慶応3年/引用者)九州に戻っていた淵上郁太郎が筑後柳川の山中で尊壌派によって殺された。囚われて いた六角獄舎から出されて、近藤らの長州入りに協力したため、裏切り者として殺害されたのだ。」
新撰組も内部での殺し合いがいかに凄まじかったかを葉室氏は言いたかったのかもしれないと思うほど描かれています。
柳川の山中というのは不明です。今の柳川市周辺にはありませんので、柳川藩のどこかというと、瀬高町辺りしか浮かんできませんがどうでしょうか。
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