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「8世紀の迎賓館はどこだった?」 [歴史]

 

 

鴻臚館が迎賓館だったというのが定説ですが、8世紀は違ったのではないかという意見が出されています。それは二つの地域の史跡の役割が分からないためです。ひとつが西鉄二日市駅の太宰府線の北側に広い敷地が何もない状態になっています。「客館」跡とされていますが詳しくはまだ分かっていないと思います。もうひとつは、大宰府政庁跡の西側の蔵司地区の発掘が進んでいますが、そこの大きな施設がどのように使われたかという議論の一つとして迎賓館説が出ているという。

 

「8世紀の迎賓館はどこだった?

鴻臚館ではなく太宰府か

本格的な発掘調査から昨年で30年となった鴻臚館(福岡市中央区) は「古代の迎賓館」と表現される。迎賓館とは国賓が宿泊し、もてなしの宴が開かれる場所だ。だが、朝鮮半島を統一した新羅との外 交が盛んだった8世紀、鴻臚館(当時の名称は筑紫館)で使節を饗応した記録はない。使節をもてなしたのは、実は大宰府だった一。そんな見方が近年強まっている。

 

大宰府の外交施設は2011年に見つかった「客館」跡が挙げられる。8世紀半ばから9世紀半ばにかけての南北2430M東西約9M の大型掘立柱2棟は、大宰府政庁から南に1キロ離れている。石見清裕・早稲田大教授(中国史)によると、時代が並行する中国・唐では都の長安城の客館で大臣クラスによる外交が行われた可能性があり、大宰府の客館も宿泊だけの施設だったとは考えにくい。 だが、唐では皇帝が出席する宴には使節が宮殿に出向く。大宰府に天皇はいないが「朝鮮半島諸国・渤海に朝貢を求め、国際的に認めさせようとする帝国意識」(岩永省三・九州大総合研究博物館教授の論文「日本における都城制の受容と変

容」)を持った時期の日本が儀礼の宴で「格下」の使節を訪ねる形を取るのか。 注目されるのが政庁西側の蔵司地区の中でも高い場所にある大型建物(8世紀前半から半ば)だ。柱座を持つ礎石があり南北に庇が ある東西37M南北13Mで、平面は大宰府政庁の正殿を上回る。発見時は「大宰府の財政をつかさどる中枢の役所」とされたが「饗宴の場」という見方もあった。(以下略)」(2018323日西日本新聞)

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