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宗像氏と沖ノ島 [歴史]

 

今も地名に残る宗像氏はWikipediaでは次のように説明されています。

 

「古代より中国や朝鮮との貿易で繁栄した地域で知られ、宗像大社の神領で世界文化遺産の沖ノ島を持つ。飛鳥時代には、宗像大社が九州唯一の神郡に指定されその範囲は東は遠賀川、南は宮若市、西は新宮町に及んだ。戦国時代には宗像大社の大宮司・宗像氏貞が有力な大名として蔦ヶ嶽城(現・城山)に城を構え、遠賀・鞍手を含む全宗像を他の大名(立花道雪や大友氏など)の侵略から護った。」

 

さらに「宗像・沖ノ島と関連遺産群」というパンフには次のように紹介しています。

「古代豪族宗像氏はやがて大宮司家として対外貿易に活躍し、中世まで宗像大社とともに繁栄しました。大宮司家は戦国時代の終わりに断絶しますが、江戸時代以後も社家や値域の人々によって信仰は守られてきました。」

 

歴史の専門家は次のように整理しています。

 

「宗像勢力の成長

 近年の考古学の成果も参照すれば、現在のところ、沖ノ島と宗像の関係については、おおむね次のような変遷が描けそうである。 四世紀後半に各地の首長を率いて朝鮮半島情勢に関与するようになった近畿の王権は、響灘から直接対馬や朝鮮半島へと向かうルート上に浮かぶ沖ノ島に着目し、ここで祭祀を行うようになった。以前から朝鮮半島と交流のあった宗像の首長層も、この祭祀をともなう海上交通にかかわり、朝鮮半島から人や文物を呼び込むようになる。ただ、この時期の宗像は、有力な首長墓も沖ノ島との強い結びつきも明確には確認できず、沖ノ島へ向かういくつかの渡海地の一つにすぎなかったとみるべきである。ところが五世紀半ばになると、宗像地域は、沖ノ島の祭祀の発展と、響灘と博多湾をつなぐ地理的条件によって、王権の注目を集めるようになる。すると宗像では、これに呼応するように沿岸地域の地域連合化がすすみ、王権祭祀と結びついた沖ノ島の祭祀を支える、北部九州でも有数の倭韓交流・交易の担い手として、その勢力を拡大させていったと考えられる。

しかしまだ謎は残る。王権と結びついた宗像勢力は、なぜ五世紀半ばになって急速に力を伸

ばしていったのだろうか。筆者はそこに、以下で述べるように、近畿の王権自体の変化が影響していたとみる。」(『国際交易の古代列島』)

 

世界遺産指定後、どのような動きがあるかはあまり報道されていないように思います。

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