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「絵を描きたい」 [平和]

 

 

201876日西日本新聞からです。無言館のことは知っていますが、作品を見たことがありません。福岡でも開かれればと思いますが・・・。

 

「『もっと描きたい』あふれる思い

戦没画学生が残した140

「無言館」の展覧会 長崎県美術館で

日中戦争や太平洋戦争に 出征し、志半ばで命を落とした画学生たちの遺作展が 長崎市の長崎県美術館で開かれている。長野県上田 の戦没画学生慰霊美術館 「無言館」の収蔵品約14 0点。無名の若者たちが残した絵に華やかさはなく、ずばぬけてうまくもない。 それでも「絵を描きたい」という純粋な思いが画面にあふれ、強い印象を残す。淡いピンクのワンピースを着た少女が屋外でしゃがみ込んでいる。斜め上から見下ろすように描いた太田章さん(享年23)の「妹・和子の像」は、妹をいとおしむ兄の視線そのもの。太田さんはこの絵を妹に残し、旧満州(現在の中国東北部)で戦病死した。遺作の多くは家族や身近な風景がモチーフ。戦地に行けば、生きて帰れる保証はない。出征を控えた画学生たちは死を覚悟したに違いない。彼らの思いを、東京美術学校を卒業後に出征した画家、野見山暁治さん (97)=福岡県飯塚市出身=は長崎県美であった講演会 でこう代弁した。 「僕らは、これだけは残 したいと、しがみつくように描いた。(戦没した画学生たちに)いい絵を描こうとか、いい絵描きになろうという野心はない。(モチーフにした人物や風景を)毎日見つめていたいという描き方をしている」(以下略)」

 

同じ新聞に戦争体験記があります。

 

「卒業式に出席 猛爆に遭わず 88

昭和20年春、旧制中学2 年生(15)の私たちは軍の命令で学徒動員を余儀なくされた。私のクラスは大刀洗製作所で戦闘機胴体部にびょうを打つ作業。その日はB29編隊による

1次大刀洗猛爆があったものの、たまたま先輩方の卒業式に全生徒が出席して いたため九死に一生を得ま した。犠牲者は千人近いと 聞いています。 甘木郊外の軍需分工場ヘ 自転車を運転中に、グラマ ン戦闘機の低空機銃掃射に 遭いました。狙い撃ちでしたが農道のあぜ道に伏せ、命拾いしました。このころすでに敗色濃く、東洋一といわれた大刀洗も、敵機のなせるまま無抵抗の状況でした。

こうして幸いにも2度の 命拾いをしました。戦争は 国民をも巻き込んだ大悲劇。終生忘れることはできません。」

 

「死隣り合わせ段姉は肺結核で  83

小倉(現北九州市)に住んでいた私の家族は、隣組内の連絡で床下に防空壕を掘らされた04年生だった私 は母に尋ねた。「家が燃えて床下にいたら焼け死ぬのでは」と。「そうね」と言った母は防空壕を物置代わりに使い、入らなかった。 昭和196月、B29が小倉を空襲した。寺の庭にあった防空壕は直撃弾を受け、入っていた一家は亡くなった。死が身近だった。その年の夏休み、私と弟は広島県三原市に母方の伯父を頼って疎開した。地元の糸崎国民学校では、少年 航空兵や少年戦車兵となる 上級生を見送った。疎開している間に、女子挺身隊の 姉が肺結核で亡くなった。2086日。広島の本社 に出張していた伯父が被爆 死した。三原市に避難して'きた人たちは傷もないのに次々に死んでいった。戦後。新制中学1年の時に新憲法と「戦争放棄」を教わった。これからは誰も 「御国」のために死ななくて良い。それがうれしかっ た。」

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