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中世の遺跡も [歴史散歩]

 

 

地下鉄工事で沈没したところなどを含めて、遺跡の発掘が続けられています。「ブラタモリ」でも紹介されたのは、キャナルシティ博多の近くです。

 

「見えてくる寛容な都市像

中世最大の貿易都市 博多遺跡群発掘40

出土品2000点が国重要文化財に

 

11~16世紀、博多は中世最大の貿易都市として栄えた。 その遺構である博多遺跡群 (福岡市博多区)の発掘調査 が始まって今年でちょうど40年。輸入陶磁器など計約35万 点が出土し、3月には、このうち約2千点が国重要文化財に指定されることが決まった。一連の調査成果から、異文化に寛容な中世博多の都市像が具体的に見えてきた。(略)

中国文化は都市の隅々に 浸透していたようだ。 交易の主な担い手は、博多に住んだ中国・宋の商人「博多綱首」。博多と現在の浙江省寧波を結び、承天寺(博多区) の創建を支援した謝国明のように日本人の妻を持つ者もいた。遺跡群では中国人の名前が底に墨書された陶磁器が多数出土する。荷主を表すと考えられ、交易の窓口・博多ならではの遺物とされる。 古代の迎賓館「鴻臚館」の 廃絶と軌を一にして、都市が 形成された博多。中世の地形は、現在の明治通り周辺を境 に、内陸側の博多浜と海側の息浜(おきのはま)という二つの砂丘に分かれていた。港は博多浜西岸にあったと推定される。船から荷揚げする時に壊れたのか、大量の陶磁器が波打ち際に捨てられた痕跡が見つかった。シンボでは息浜にも港があった可能性が報告された。重文指定品の意義について、文化庁の横須賀倫達文化財調査官は「中世日本の貿易の実態を明らかにし、港湾都市に住んだ人々の生活や生産、経済の具体像を示す」と解説した。

謎もある。12世紀の文献に 「博多津唐房」という言葉が 登場する。現代風に言うとチャイナタワンだ。遺跡群の建物跡に大差がないため、所在地は分かっていない。

調査に携わった福岡市埋蔵文化財センターの大庭康時所長は「宋人は日本風の建物に住んでいたのでは」と想像する。 ただ、中国風の瓦は出土している。近年の研究ではこれらが寧波の土で作られたことや、寧波の瓦と同一の文様のものがあることが分かった。博多津唐房の場所を特定する手掛かりになるかもしれない。 遺跡群が見つかる以前は、 中世博多の研究は文献調査が 中心だった。「文献は社会の 上層部が残したものが多く、 民衆の生活について多くを語らない」と九州大の佐伯弘次教授(日本中世史)は言う。

40年間の発掘調査の意義は大きい。発掘面積は、遺跡全体の1%にも満たない約82万平

方メートルで、中世博多の大部分は地下に眠ったままだが、都市の概観は分かった。今後について、大庭所長は「桟橋など港の具体的な様子はどうか。博多はうどんの発祥地とされる

が、考古学的に裏付けられないか。きめ細やかな成果を出していきたい」と話している。

(野村大輔) 」(2017614日西日本新聞)

 

承天寺など寺が多い地域を御供所町と言い今も地名が残されています。筥崎宮にお供えする供物を用意した地域からきているという。御供所町は今に比べると相当広かったという。

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