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端末化しないために [書く]

 地方議会の議員が海外出張の報告書をWEBから引用したりしていることが問題になったりしています。ブログなど書いている自分にも似たような感覚があるのではないかとふと立ち止まります。新聞記事を引用して、若干の私見を加えて投稿したりしているようなことも多いのです。辺見庸氏は次のように指摘しています。
「端末化する生体
ぼくはネット、テレビもふくむ情報のデジタル化は世界像の扇平なデジタル化だとおもうのですが、即時的な情報の伝達と受容が可能になったということを、逆に危険なこと、マイナスのこととして考える発想が、いま、非常に大切だとおもいます。つまり、即時的にメッセージが発信され、それを受けることができる世界は、便利なようでいて、じつは長期的にはヤバイよと。人間の生体として、なにか窮屈な、生体として受けいれることができない無理がきているとおもうのです。これにより人間は思考的な生きものではなく、反射的な有機体であることを求められている。末期資本主義はわれわれに思索ではなく、反射と即時的かつ即自的な反応のみを要求している。」「われわれはみな携帯電話を内蔵した存在になった」とジャン・ボードリャールが書いたのは早くも一九九○ 年代でしたが、事態はいま、文化論の象徴表現的次元をこえて、はっきりと現実化しています。人間が携帯電話を身体に内蔵したような生きものになってしまったことは、秋葉原事件の青年だけでなく多くの人が認めざるをえない事実なのです。」『しのびよる破局』
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そんなことを改めて考えたのは昨晩から読み始めた『ゆびさきの宇宙』の主人公盲ろう者の福島智さんのことを考えたからです。見えない、聞こえないという世界に徐々に誘導されて、世界初の盲ろう者大学教授になります。そこでの福島氏の思索の深まりをどう考えたら良いのか。指点字というのを発見してというか、発明して、初めてコミニュケーション手段を得ますが、一見するとその場の雰囲気を含めて得られる情報量は大いに制限されているわけです。

ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて

ゆびさきの宇宙―福島智・盲ろうを生きて

  • 作者: 生井 久美子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2009/04
  • メディア: 単行本

それを乗り越えていくこと、必要な情報など考えさせられる内容があります。ネットや新聞・テレビでたくさんの情報を得ているというのは、本当なのか。誰かに操作されていないのか。裁判員制度で利用される画像説明にもバイアスがかかっているので、誘導されやすいという指摘もあります。そうすると、情報とは何か、どう選択するかの基準が求められるように思いますが。 


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