名前にこだわるか [社会]
11月26日は「いいフロの日」という。語呂合わせのなかで11月は「いい」で始まるから確認はしていませんが〇〇の日が多いのではないかと思いました。し
名前が変わるのに郷愁にひたる人も少なくないのかもしれません。八幡製鉄所の名が消えるというのだ。
「この世ランドの眺め 昔々、あったげな 村田喜代子
『製鐵所』 、近代的な洋式高炉の製鐵所は、日本中ここしかなかったのでこれで充分。官営も八幡も株式会社も何もいらず、すっきり シンプルなこれだけ!三文字の社名は以後三十三年開通して、やっと昭和九年『日本製鐵株式会社』と変わった。昔はこんなに簡単だったんだ。このシンプルというか素朴さは、例えばこの私なら「村田」とか「喜代子」とかの名前もなく素性もなく、自分の顔を指でさして、「あ、た、し」と言っている感じ。歩きはじ
めた幼い子みたいで可愛い。明治から百二十年余、その世間知らずの可憐な「あたし」は、
戦後日本の鉄鋼業を育て上げ、役目を果たすと、やがて時の彼方ヘ飛んで行ったのだ。
「とくに淋しい気持ちはないですよ。人も企業も移り変わります」電話の人にそう言った。(一部引用)」(2019年11月22日西日本新聞)
最近は女子アナウンサーなどは結婚しても旧姓のままで通している人が多い。その方が愛着もあるし、離婚してまた旧姓に戻さなくて済む。女性が姓を変えなくてはならないとは限らない。オトコ社会のなかで女性の姓を使うことに抵抗がある人が多いと思うが、そうでもない人もいるはずです。人も、組織も、名が体をあらわしているのですから、社会環境によって変わらないといけないのではと思う。姓が誰か偉い人から与えられたり、住むところによるものであったり、それほど深刻になって決められたものでなかったりします。ある意味、記号みたいなものだと思うのですが、どうでしょうか。
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