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神仏を感じたとき [読書]

 

 

神仏とは無縁に生きていきました。ですが、この世で偶然としか説明できないことがあるように感じるときがあります。私のてんかんについて、1歳未満の時に頭部にできものができ麻酔ナシで摘出手術をしたそうです。今も傷痕が残っています。それが原因ではと親は言いますが、断定はできません。戦争で麻酔薬がなかったというのですが、どうでしょうか。

自分の意思とは無関係に意識を失うことの恐怖は、自分を自分でコントロールできない恐れでした。高村薫さんのように考えつくした訳ではないのですが、感じたことはあるように思います。

 

「高村 私のような人間は、その齟齬を乗り越える発想をもたないのです。()

道元Aと道元Bの差を僧侶の発想で折り合いをつけておられるように感じます。私にはそれができません。そこに出家者とそれ以外の人間との大きな違いがあるのではないでしょうか。  それでも、先ほど申し上げたように、自分の力で考えて考えて考えた末に、ここから 先は行けないという場所にぶつかったとき、私は初めて仏について考えることができる ようになったと思っています。つまり、言葉で言い当てることのできる限界の、さらに先にある何ものか。そういうものとしての仏という捉え方ですが、ただ、そこに「信じる」はありません。だから一般の人間でも、まずは考えることから始める。考えてそれから問う、問いを問い続けることで、帰依する一歩手前までは行けるのではないかと固いうに至りました。

非常によくわかります。禅話や仏教用語には「言語道断」や「言猷利加」という言葉があります。いずれも、「言葉では言い得ないものがある」という意味です。問題は、「言い得ないものがある。ではどうするか?」というとき、「信じなければいけない」と結論守つけてしまうことです。するとそこで閉じてしまいます。「言い得ないもの」を顕わにするためには、言い続けるしかない。言ったことを裏切り、そしてまた 言い続ける。そこで生じる抵抗感や摩擦でもって、「言い得ない」ということを示すしかない」(『生死の覚悟』高村薫 南直哉著)

 

災害などのときに、隣りの人が亡くなって、自分が生き残ったときに神仏を感じるという人もいますが・・・。

 


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