教育の価値は [自分史]
私が育った集落は近隣の集落に比べてみれば大きかった。筑後平野の田んぼに囲まれたなかに、明治の時代に小学校があったという。どうも江戸時代の寺子屋の名残りのように思えるが、確証はない。農家がほとんどの地域なのに教育に力を入れていたように思う。テレビの「ポツンと一軒家」をよく見ますが、学校まで1時間という距離を徒歩で通っていたという話を聞くと、教育が大事にされていたことが分かります。
そんなことを思い出したのは視覚障害者の教育に力を入れた先人の話を読んだからです。
「春によせて 内田邦子NPO法人日本障害者協議会理事
さて、隅田川といえば、両国には、江戸・徳川綱吉の時代に活躍した盲人鍼師(はりし)の杉山検校 (けんィぎょう=当時の視覚障害者の最高の官位)がいます。綱吉の鍼医だけではなく、視覚障害者教育 のパイオニアでもありました。 綱吉から「何かほしいものはないか」との問いに 「目がほしい」との答えに本所(ほんじょ)一つ目の地を拝領したエピソードが伝えられています。そして杉山検校は、その地で職業訓練校であり銀術講 しんじどういん 習所であった「杉山流鍼治導引学問所」を開設するようになります。
後年、弟子によって、全国に45ヶ所に上る講習所 が開設されるようになり、多くの優秀な鍼師が誕生 していったそうです。教育内容も、基礎から系統立てて技術が学べるように、初期教育(按摩・鍼各々 3年の計6年)、中期教育、後期教育、最終教育、 とそれぞれに教科書もつくられて教育が施されたようです。(略)
明治時代になると太政官公布によって講習所は廃止されますが、視覚障害者の職業として、学校教育 の中に反映されていきます。 しかし、現在、健常者の鍼灸師が増え、視覚障害 者の職業として、生活のみならず、健常者と同等に たずさわれ、適職として継がれてきたものが、視覚 障害者の治療家が少なくなっていく状況に危うさを 感じざるを得ません。とても残念であり、なんとか したいものです。(一部引用)」(『すべての人の社会』2019.4月号 日本障害者協議会)
こうした先人たちの苦労を受け継ぐ私たちに今の課題を教えてくれているようです。
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