犠牲の精神だけで良いか [寛容な社会]
「ポツンと一軒家」というテレビを観ていますと、テレビがないというか、見ないという方がたまにあります。その生活を子どもたちも受け入れているのには考えさせられます。
気になるコラムがありました。
「道徳」を教科にすることの危険を感じます。
「オピニオン 永田健の時代ななめ読み やるなあ、星野君
「かんとくの指示は、バントだけれど、今は打てそうな気がするんだ。どうしよう…」
ピッチャーが第1球を投げ込んできた。星野君は反射的に、思いきりバットをふった-。
これは小学6年道徳教科書に掲載されている読み物「星野君の二塁打」の一節。小学校道徳で使用される8社のうち複数の教科書がこの話を載せている。
少年野球の地区大会で、監督の「バント」の指示に背いた星野君は見事二塁打を放った。これでチームは勝利し、市内野球選手権大会への出場を決めた。
翌日、監督はメンバーを集め「僕は星野君の二塁打が納得できない」と切り出す。バントで送るのが「チームで決めた作戦だった」として、勝手に打って「チームの和を乱した」と星野君を非難する。
さらに監督は「ぎせいの精神の分からない人間は、社会に出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ」と諭し、大会で星野君を出場禁止にすると宣言する。
ある教科書はこの教材の「学習の道筋」として「決まりを守り義務を果たすことの大切さについて考える」と添え書きしている。
◇ ◇
この話に、私はかなりの違和感を覚えてしまう。
この違和感はどこから来るのか。「危ない『道徳教科書』」(宝島社)などの著書がある元文部科学省官僚の寺脇研さんに聞いた。
「この教材で授業をすれば、子どもたちの意見は『星野君は間違ったことをした』になるのは明らか。これでは『結論の押し付け』だ。たとえ監督の指示が間違っていても守らなくてはいけないのか。指示に反したら必ずペナルティーを受けなければならないのか。この話では、そうした議論の発展が生まれにくい」
「さまざまな問題は『個人』と『公共』との間合いの取り方に起因する。100%自分を主張することも、100%自己を犠牲にすることも不自然。ケース・バイ・ケースの判断が必要だ。それを『組織の指示には従うべきだ』と教え込めば、例えば過労死という悲劇が生まれる」(以下略) (特別論説委員)=2019/03/10付 西日本新聞朝刊=」
かつての国に奉仕せよということで戦争に向かったことを想起するのは考えすぎでしょうか。
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