「炭爆忌」 [職場]
テレビ番組で「ポツンと一軒家」(正確かどうか)というなかで高度成長期に電力確保のためにダムが作られ、ダム湖に沈んだ住まいから上の方に家を建てた人の子どものことを紹介していました。高度成長期にはそれによって仕事を得られたりした人も多かったが、故郷を失った人も多かった。同じように産業構造も変革の時期だった。1963年(昭和38年)3月高校を卒業し就職したばかりの私の背中を押すように舟木一夫が歌う『高校3年生』が歌われていました。そして、炭鉱爆発事故も増えてきました。
「『炭爆忌』 今年56回目に 70歳
俳句に関わるようになって、地域特有の季語として 「炭爆忌」があることを知った。1963年11月9日。 私は高校1年だった。当日は担任教諭、美術部員とクラスの有志で福岡県久留米市の石橋文化センターで開催されていた「松方コレクション」の印象派の美術展を見に行っていた。 帰宅すると母が青ざめた顔で「今日、三川坑で大爆発が起き、〇〇さん(叔父)安否が不明だ」と言った。その叔父は宮浦坑から生還した。坑外勤務だった父は 次から次へと運ばれてくる亡きがらをご家族に届ける車に同乗し、「生き地獄を見た」と語った。あれから56回目の炭爆忌か巡ってくる。ご遺族の方、CO中毒患者となられた方をみとられた方々には想像を絶するドラマがあっただろう。2階に上がれば、石炭発見の稲荷山を、町の今昔を照らしながら大きな月が渡って行く。(福岡県大牟田市)」(2018年10月17日西日本新聞)
56年の時を経て、忘れてはいけないものだと思う。
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