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新聞が伸びるとき [平和]

 

 

2018525日西日本新聞の戦争体験投稿からです。

 

「戦争の悲哀は 動物たちにも 93

先の戦争で犠牲になったのは人間ばかりではなく、 物言わぬ動物たちも例外で はありませんでした。 戦争が激しさを増し、空 襲によって破壊された動物 園を逃げ出した猛獣が人 間に危害を及ぼすことが心 配されて殺生されることに なったのです。 ある動物園の「ぞう」は、 芸を覚えるため食べ物を与えられていましたが、それを絶たれてしまいました。 「ぞう」は食べ物欲しさに日夜芸を続けましたが、力尽きて死にました。この話は「かわいそうなぞう」として小学校の教科書にも載りました。

昔から人間と深い関係にあった馬も、各地から集められ戦場に送られ、その多くが帰らぬ馬となったのです。戦争は人間だけでなく、多数の動物も犠牲になったことを忘れてはならないと思います。」

 

「中学4年時の旅行先は日本 92

私が学んだ朝鮮の大邱公立中学校では、戦時中ではあったが修学旅行が3年生と4年生の春に実施されていた。昭和154月に3年生になった私たちは同月中旬、 12日で慶州(現韓国慶州市)ヘ向かった。新羅90 0年の都であった慶州は史 跡も多く、良い研修ができた。翌年4月に4年生になり旅行先は日本。内地は外地育ちが多い生徒たちにとって有意義だったと思う。玄界灘を渡った内地ではまず祭神が神武天皇と皇后である橿原神宮に参拝。その後、京都、東京、日光と足を延ばしたが、各地で日本伝統の風物に接し、日本人 としての誇りを胸に朝鮮に 帰った。旅行中は国防色の 制服、制帽にゲートルを着用したスタイルだった。 その8カ月後、昭和16128日に大東亜戦争が始 まった。戦時体制も強まり、翌年以降の修学旅行は中止になった。昭和183月に卒業した私は、大邱中学校最後の修学旅行経験者になったのである。」

 

戦争で儲かったのが新聞だという指摘があります。

 

「『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(半藤一利・保阪正康東洋経済新報社)によれ ば、日露戦争の開戦前、「断固帝政ロシアを撃つべし」という新聞と「戦争を避けて、外交交渉を続けるべきだ」という新聞に分かれていたそうです。 そして「戦争反対の新聞は部数がどんどん落ちる」「その一方で、賛成派の新聞は伸び始め」たのです。 結果「戦争前の明治36年と戦争が終わって2年目の明治40年で比較すると、『大阪朝日新聞』は11万部から30万部、『東京朝日新聞』は73千部から20万部、『大阪毎日新聞』 は92千部から27万部、『報知新聞』は83千部から30万部」に伸びたのです。 冗談だろうと笑い話になりそうなぐらいの伸びだと半藤さんは言います。」(『不死身の特攻兵』)

 戦争で儲かることを知って新聞が軍部に協力していったし、唯一戦争反対を唱えた「平民新聞」は廃刊に追い込まれたという((同前)。

 

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