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地域消滅はつくられているのでは [支え合う社会]

 

 

今年の7月の九州豪雨では、高齢者中心の被災地の困難を浮き彫りにしています。復旧しても仕事を続けられるのか、後は誰が担うのかが分からないという現実も示しました。しかし、復興に向けての動きが続いています。ですが、交通インフラの見通しが立ちません。特に、JR九州の日田彦山線の復興計画は自治体の出資がなければ難しいという。JR九州は民間企業だからという。企業としての収益は順調のようです。これが国鉄民営化をしたツケです。さも民営化で財政が健全化するように言いましたが、この国の赤字は増え続け、過疎化は進みました。そしたら消滅する地域が出るという。ここまでの流れはいかに政治が無策であったかということではないか。

 

「選択の選択

しかしなぜ私たちは、ここまでの選択をしなければならない羽目に陥っているのだろうか。それは「選択と集中」論が「選択と集中」を選択するよう要請するからである。しかもそこ には一つしか選択肢がないのだから、選択というよりも強制的な誘導が進められているといわねばならない。その誘導に乗る前に、それを受け入れるかどうかかの選択(メタ選択)こそが 必要なのだ。「自治体消滅」「地方消滅」、さらにはこの国の消滅へ-こうしたセンセーショ ナルな物言いに惑わされて、選択を強制する策略に乗ってしまうのがもっとも危うい選択だ。 私たちの家族や地域は、「選択と集中」が突きつける要請に従わなければならないのか。も し私たちがそれに従わないのなら、切り捨てられるのか。逆にその選択に乗った者にはどんな アメがもたらされるのか。だがそもそもその選択は誰の選択なのか。れとも、そういう選択はやめて、多様なものが多様なまま、互いに存在を認め合って共生することを選ぶべきではないのか。そこには集中ではなく分散が、そして強い経済力ではなく、

持続力やしなやかさが対置されることになろう。

「選択と集中」とは要するに、そうした多様性を許さない思考法なのである。ここには何かの強迫が働いており、ある基準への画一的隷従を要請する。「多様性」という対抗軸は、偶然に出てくるものではなく、「選択」という強制がなされるがゆえに必然的に現れるものである。どちらを選択するかは重要な分かれ目だ。ここには別の道はない。「選択」という言葉がそれを許さないからだ。」(『地方消滅の罠』三宅祐介)

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