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歴史散歩・梅頭遺跡 [歴史散歩]

 

 

須恵器の生産拠点が私が住んでいるところにはあったという。須恵器は「陶質土器(炻器)で ある。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的
なものもある」とされまずが、写真をご覧ください。6世紀から9世紀ごろまで続いたとされています。

下大利からバスに乗ると3つ目のバス停が日の浦であり、近づくとバスの料金表示横に遺跡の説明画像が出てきます。今年になったからだと思います。近くに、昨年だったと思いますが、職人の集落跡と思われるものが発掘されました。

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大野城市説明資料から
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大野城市ホームページの遺跡説明です。

「梅頭遺跡の場所

 遺跡は牛頸(うしくび)山から北側にのびる丘陵がヤツデ状に分かれる小丘陵の西側斜面にあります。三兼池をとおって谷を抜けると古墳時代の集落である上園(かみのその)遺跡、南南東約700メートルの所には牛頸窯跡群(うしくびかまあとぐん)最古の野添(のぞえ)6号窯跡があります。

 

何が見つかったの?

この遺跡では窯跡と土坑が見つかりました。

 窯跡は1基確認されました。全長は約11.5メートル、幅約1.75メートル、高さは約1.1メートルで、側壁は焚口(たきぐち)から煙出し(けむりだし)までほぼ直線になる形態をとっています。床面(ゆかめん)には1枚貼床(はりゆか)が認められ、側壁にも補修のための貼り壁(はりかべ)が認められます。窯尻(かまじり)の床面に残った痕跡から、煙の出口に粘土柱を立てて煙出しの穴をたくさん作り出す、全国的にも牛頸窯跡群にしか見られない『多孔式煙道』(たこうしきえんどう)を持つ窯跡であるようです。窯跡の煙道部には作業路(さぎょうろ)と呼ばれる溝がつき、弧を描き窯跡の左側斜面中腹までのびています。最も深いところでは約1.8メートルあります。

 

 窯跡の中からは、鉄刀1本、鉄鏃5本、多数の完形品の土器が見つかりました。いずれも窯の操業終了後、置かれたと考えられます。鉄刀は全長約77センチメート、刀身の幅約2.03.3センチメートル。鍔(つば)やはばき、鞘尻金具(さやじりかなぐ)、柄(つか)を止める目釘(めくぎ)まで残っており、さらに柄や刀身には木質が残っていることから、当時鞘に納められ、完全な形で置かれていたと考えられます。またX線写真撮影の結果、はばきには文様があることがわかりました。鉄鏃は木質が残っていることからいずれも矢柄(やがら)に着装された状態であったと思われ、出土状態から束ねて置かれたと考えられます。

 完形品の土器は須恵器杯身(つきみ)、杯蓋(つきぶた)、提瓶(さげべ)などがあり、いずれも精微なつくりで、十分商品として使用できるものです。うち2点には、赤い顔料ではないかと思われるものが付着しています。

 灰原(はいばら)からは須恵器杯身、杯蓋、高杯(たかつき)、提瓶、壺(つぼ)、甕(かめ)の破片が出土しました。中でも注目されるのは、車輪紋(しゃりんもん)と呼ばれる当て具痕を持つ脚付きの須恵器です。器形も非常に特殊ですが、この種の当て具痕は牛頸窯跡群では見つかっていません。

 類例としては、北九州市天観寺山(てんかんじやま)Ⅱ区12号窯跡、大阪府陶邑(すえむら)窯跡群TG68号窯跡があり、他地域の工人との交流があったことを伺わせます。

 窯跡は出土した須恵器の形から、古墳時代の終わりごろ、6世紀末から7世紀初頭にかけて操業されたと考えられます。

 

何がわかったの?

 

現在窯跡は明治時代初めに作られた三兼池に面していますが、操業当時、池は大きな谷であったと考えられます。この谷を下ると上園遺跡があり、須恵器工人が住んでいた集落と考えられています。おそらく梅頭遺跡で見つかった窯跡は、上園遺跡の工人たちが作ったものと考えられ、作られた土器はこの谷を上って窯まで運ばれ、焼かれた製品は谷を下って各地へ運ばれたと考えられています。また当て具痕の特徴から、ここの工人たちが大阪や北九州の工人たちと交流があったことがわかります。もしかしたら、向こうの工人が道具も一緒に持ってきて、作ったのかもしれません。また、窯跡の中から鉄刀・鉄鏃が見つかったことは全国で初めてのことで、極めて重要な発見です。窯跡内の土層の観察から、窯の操業が終わり窯内に少し土がたまった段階で鉄刀・鉄鏃は置かれたことがわかっています。このことが意味する所はまだわかりませんが、可能性としては

     
(1)
窯を閉じる際のおまつりに使われた

     
(2)
窯に関係の深い人が埋葬された

 

2つがあげられます。今後慎重に検討を進めてゆきたいと考えています。

まとめ

 遺跡の南南東約700メートmの所には牛頸窯跡群最古の野添6号窯跡があります。時期は梅頭遺跡の窯跡より約50年ほど前の6世紀中ごろのことです。以後、牛頸窯跡群は遺跡の範囲を現在の太宰府市や春日市にまで広げ、奈良時代の終わりごろ、8世紀の終わりまでの約250年間あちらこちらの山々で須恵器を焼く窯の煙が立ち昇っていました。梅頭遺跡はちょうど窯をたくさん作り始めた時代にあたり、集落から近い所が選ばれたのでしょう。また、須恵器作りに関わる工人が鉄刀を所有していることはあまり想定されていませんでした。今回の発見で、須恵器工人のイメージが変わるかもしれません。

 

遺跡の周辺の上大利地区は日本でも有数の窯跡群である牛頸窯跡群はじまりの地でもあり、操業開始期の様子を知る上でも非常に重要な地域で、全国的にも注目される地域です。今後、周辺では区画整理事業にともない発掘調査を進めていきますので、どんな発見があるかご期待ください。」


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