古代山城 [歴史]
2月に「古代山城サミット」なるものが福岡県大野城市で開かれました。先日、民放で熊本県菊池市などにまたがる鞠智城から百済の仏像が発見されたのを記念した番組を放映しました。大野城・鞠智城や基肄城(福岡と佐賀の県境)は朝鮮式山城と呼ばれます。7世紀の朝鮮は高句麗・百済・新羅があり、新羅が他の国を滅ぼそうとします。日本(倭国)は百済を支援しますが、敗れます。新羅からの防衛線として山城が築造されたと言われているそうです。鞠智城から百済の仏像が見つかったことで、亡命百済人が山城の指導をしたというのがより具体的になったようです。大野城から基肄城を結ぶ水城(みずき)は防塁として大宰府を防衛する役割を持ちましたが、新羅が侵略してくることはありませんでした。写真の上の方が山城「大野城」真ん中の緑の連続体が水城で、基肄城まで続いていたそうです。水城を横断しているのが高速道路です。
この周辺の地名では「春日原」(かすがばる)「白木原」(しらきばる)と「原」を「ばる」と呼びます。これも、朝鮮の影響だというのをいつか読んだ記憶があります。古代から朝鮮との交流は連綿と続いています。近代、植民地支配などの問題がありましたが、隣国としての歴史的交流は今も続いているのだと思います。
いずれも大野城市教育委員会資料から
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