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大刀洗に行くつもりが [リハビリ]

8月は歩くのも少なかった。そのせいか、お腹はさらにダブダブになり、危険信号が出ています。暑いからと弁解していると大変なことになりそうで、午後所用がありましたが、曇っているので急遽出かけて少し歩いてみようと思いまして、大刀洗に向かいました。先日、銀行の現金輸送車が強奪されたばかりなのでどうかと思いましたが、駅の前に戦争資料館みたいなものがあるというので、行ってみようと思い立ちました。西鉄電車で20分ほどで小郡駅に到着、甘木鉄道で大刀洗まで行こうと駅に向かいましたが、ちょうど1両の電車が発車していきました。時刻表を見るとあとは30分後。1時間に2本程度です。それでは、少し待とうと歩いていると案内図に「大原の戦跡」があるというので、そちらに向かった。西鉄の線路をわたり、小郡市役所横でした。公園になっていて碑があるだけですが、昔の地理を想像させます。

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ウィキペディアでは「筑後川の戦い」として紹介されています。

「後醍醐天皇が征西将軍として九州に派遣した8歳の皇子・懐良親王と、彼を奉じた菊池武光は、高良山・毘沙門岳に城を築いて征西府とした。延文4/正平147月、懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦った。戦いの苛烈さについては頼山陽も詩に歌っている。この戦いで足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて26,000余が討死にしたといわれる。この戦いに敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。戦いののち、傷ついた菊池武光が、刀についた血糊を川で洗った場所が、筑後国太刀洗(たちあらい)であるという伝承がある。現在の福岡県三井郡大刀洗町である。」

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戦跡を見た後で駅に戻ると、ちょうどまた電車が出たばかりでし、体力的にも厳しいので電車で帰りました。汗をかきました。今日からまた歩き続けたいと思います。

 
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