SSブログ

臓器提供についてよく分からない [医療]

 隣りのお年寄りのデイサービスのバスが今日も来ました。祭日もデイサービスがあるようです。家族にとってはありがたいでしょうが、そこまでしないと経営できないのかという不安も感じます。9時ごろ、あちこちのデイサービスの車が行き交います。

話は変わります。新型インフルエンザも増えていますが、ほとんど報道されません。このようなマスコミにも不安感があります。どこかで情報操作が行われているように思えるからです。それは臓器移植を考える私の中にも意識されているからだと思います。 
P7070003.JPG

 臓器移植の法律は通過しましたが、よく分からないことが多いです。今日も心臓移植への募金活動のニュースが流れています。生きるためには移植しかないとすれば、移植を希望することでしょう。でも、脳死が本当に死なのか、よく分かりませんし、脳死とされた家族の思いが今回の法律でどの程度斟酌されたのか。このように一気に可決されたのは、命を救うのだからいいではないかという多数の力で良しとする空気があるように思われてなりません。松本サリン事件や和歌山カレー事件などで、一方的に情報が流され、被告を守ろうとする人たちへの非難がされました。そのような社会の流れの中で、移植問題が相当安易に国会で通過したように思います。それは、光市での母子殺害事件に対する弁護団への懲罰など異なる意見を封殺しようとする雰囲気を思い出します。思い過ごしであればいいのですが。

  脳死移植に反対なのではない。善意をつなぐ移植医療に真摯(しんし)に取り組む医療者を取材して、私も臓器提供をしてよいと思うようになった。ただそのとき、家族にわずかでもためらいがあれば、その気持ちを優先して断ってもらって構わない。脳死になっても心臓が止まるまで側にいたいと思ってくれるのであれば、それもありがたい。 死の定義がいくら法律で決められようとも、いのちとは人と人との関係のなかにこそ存在すると思うからである。(編集委員・田川大介)2009/07/13付 西日本新聞朝刊 

私が心配するのは田川氏も指摘するように、少しでもためらいがあれば拒否できるようにしなければと思う。拒否した人を非難することがあってはならない。それでも、マスコミを始め、非難する可能性を強く感ずるのと、もうひとつは、人の寿命とは何かということが私には理解できていないからです。私は学齢前に一度医師から臨終を宣告されたそうです。それでも生きています。「臨終」は誤りだったかもしれません。「再生」するのがもう少し遅れていたらどうなっていたのでしょうか。そして、生きながらえたことの意味を考えると、脳死とか、寿命とか、そんなことの整理ができないでいます。少数の意見を尊重する空気がないと本当の論議は進まないように思いますが。
snap_28__0907140822.JPGテレビより

 
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。