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腕を支えているもの [脳梗塞]

 

辺見庸氏は健常であることの奥に暴力的な行動源があるようだと指摘しています。

 健常であるということと暴力の関係。ぼくの経験に照らしても、健常幻想は暴力を誘引するか暴力に誘引されやすい。倒れてからは暴力の発生源には自己の健常幻想があるのではないかと考えたりしました。いまのぼくは誰かに殴られそうになっても、暴力で対抗するどころか相手の拳を避けることも走って逃げることもできない体になってしまいました。小学生にでも突き倒されるような体にね。倒れる以前は、少々 の喧嘩ならだれであれ簡単には負ける気がしなかったものですが。そんな身体的な自信・・過信ですね、がものの考え方にも大なり小なり影響していたようです。(略)この否応ない劣性の自覚は大きい。大袈裟にいえば、いままで生きていて最も大きい思想的(あるいは詩的)変化が起きているともいえます。それがどんな変化かはうまくいえませんが、多分、悪い変化ではないと思います。他者を制するということを、たとえどんな形であれ前提しなくなりましたから。制したい、制することができる、と思わないのは断然よいことのような気がします。健常者には病者の内奥になかなか想像力が及ばないものだーとは、実は倒れてからの実感です。『自分自身への審問』より
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暴力的ということは決して力で制することではありません。重度・重複障がい者というなかには、他者に暴力的に立ち向かうように見えることがあります。でも、他者を制することではなく、自らの表現として体を使うことがあります。辺見氏のように脳卒中などで不自由になると、様々な制約のおかげで当たり前のようにやれていたことがいくつかの条件のもとに行われていたのだということを知ります。私の場合肩甲骨周りに違和感がありますので、右手が痛みます。腕が肩によって吊り下げられていることを実感したのは発病後です。こうして、他者を制しない思想が見えてくることは病が与えてくれた視点でもあります。

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