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好きでやっている/ネットカフェ難民? [自己責任論]

執拗な「自己責任論」を考える⑥

 

 今日の昼のみのもんたが司会する番組で、ネットカフェ難民に対する貧困者対策を取り上げていました。みのもんた曰く「好きでやっているのだろう」「仕事さがそうと思えばいくらでもある」という趣旨の発言をして、別の司会者も「仕事なんて最初からうまくいかない」と述べていました。日本テレビの解説者が貧困者対策としての一歩として評価し、母子家庭支援にも広がるようにと語ったにもかかわらずです。ネットカフェ難民は貧困者として見られていません。みのもんたの立つ位置がよく見えた瞬間でもありました。

雑誌『世界』では、「貧困は見えるようになったか」という対談を組んでいるぐらいですから、みのもんたを非難するだけではいけないのかもしれません。湯浅誠氏は「アパートから直接路上に出てくる人は、実はあまりいないと思います。派遣の会社寮とかネットカフェとかサウナなどの段階を経て野宿になるというパターンじゃないかと思います」と言っています。野宿者は貧困な人たちとして分かりやすいかもしれません。でも、ネットカフェ難民は好きでやっているように見えてくるのだと思います。湯浅氏は続けて「野宿者という存在は可視化された貧困なんですよ。ネットカフェの人たちとはそこが違う」とも指摘しています。そして、可視化できないバリアとしてネットカフェ以外にも、「貧困ビジネスが増えたということがあると思います。路上の一歩前の領域が増大している。ネットカフェもそうですし、派遣労働者の寮なども膨大に増えています。工場の周辺にできている派遣の寮なんて何十万床という規模でしょう。ゼロゼロ物件(敷金や礼金が無料の賃貸物件)などもそうです。そういう領域が爆発的に厚みを増してきた。だから、かつてだったらアパート生活が維持できずに路上に出ることになった人も、そこでとどまっている」。

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さらに、貧困者を努力不足として非難する背景として

「大きくいえば、人間の定義が変わってきているのではないか。人間は生きているだけで社会にコストをかける存在であり、そのコストの分を社会に返せない限りその人は生きている価値がないという、人間自身を市場的に評価するように人間の定義が大きく変わってきている。その中で、生活保護受給者や野宿者は、コストを一方的にかけている人たちだという位置づけになってしまっているのではないか」

コストがかかるのだからという非難は障がい者にも向けられています。社会的に必要な経費として理解されない限り、人間としての社会は作れません。

様々な社会的な問題を考えるときに、テレビの司会者が裁いてはいけないのではないか。みのもんたの危うさはそこにあるように思います。本人は善意かもしれませんが。

 
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コメント 2

鉄見

私も今日見ました(ネットカフェ難民にキチンと仕事を教えて
就職させるため16万?くらい国が出す・・・)と言うことでした
ある人は「僕もなりたい・・・!」又「何に使っているか解らない政治資金よりは良い・・・」など言われていましたが
私は興味半分お昼入ったことがあります。確かに安く
個室にはパソコン、テレビが置いてありシャワー飲み物は
無料で自動販売機にお金を入れなくても出て来るし・・・
しかし個室と言ってもドアは半分しかなく隣の人が時々
見え隠れします!畳半分くらいの狭い所ですそうゆう部屋が薄い板で仕切られています隣に音が聞こえないように携帯
禁止でしたそんな所にわざわざ寝泊まりする人もいないと
思うのですがやはりアパート代払えず仕方なく出て行くようですが、住む所ではありません!まともに寝れないのだし
始めは?でしたが就職したらいずれお金は返さなければいけません!お金貸すにも年齢制限があるようです!?
まだ詳しいことは解りませんが家もなくキチンと就職は
出来ないだろうし?自立するまでお金を貸すと言うこと
みたいです!これ以上多くの難民が出るより良いと思うの
ですが・・・
(それぞれの考えもあるので私の間違えかもしれません)
by 鉄見 (2008-08-26 19:25) 

すずめちゃん

貧困者対策としてとらえていくべきかと思います

by すずめちゃん (2008-08-27 10:12) 

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