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社会の「底荷」 [寛容な社会]

 


 


2020510日西日本新聞「随筆喫茶 これからを見張るカナリア 川野里子」では社会の「底荷」について触れています。随筆によれば「底荷」とは「船の重心を低くして安定させるための荷物を言う」という。庶民の暮らしが底荷だといってよいのかもしれません。社会には「見張る」役割が必要だともいう。それが弱っていると思う。記者クラブは政府の宣伝装置となり、検察庁幹部の定年を延長させるなど法に則らない「無法」が罷り通っています。見張り役の先導役のカナリアは生死を賭けています。


 


川野氏は次のように記しています。


「詩歌のみならず、芸術には五感を使って「見張る」という役目がある。 データや政治の言説に上る前に未来に浅瀬や岩礁のあることを感じ、人間がいかに生きようとしているかを感受する役目である。この見張り役が今、軽んじられていないか。


このコロナ禍の後の世界は激変するだろう。しかしこの後の世界がどうなろうとも人間の世界であり続けることだけは確かだ。短歌大会の日、私はカメラだけがある暗闇に向かいながら一つ一つの作品が見張りであり底荷であることを思っていた。 (一部引用)


 


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