『「待つ」ということ』を読む [読書]
鷲田清一氏の本です。新聞の書評にあったのだと思うが初版は2006年だというから新刊ではない。裏表紙には「現代は、待たなくてよい社会、待つことができない社会になった」という。ラインのやり取りの話を聞くと、待つことができない社会でもあり、待たなくてよい社会なのかも知れない。待つことができない社会とは、短時間でシロクロをつけなければ決着することができないという意味なのか。それは社会的な影響になっているのでしょうか。
鷲田氏は次のように述べています。
「すると〈待つ〉というのは、時間を駆ることはしないが、しかしただたんに流れるままにまかせるというのでもないような身がまえだということになる。そう、ひとは向こうからやってくるのを期して〈待つ〉。〈待つ〉ことには、「期待」や「希い」や「祈り」が内包されている。否、いなければならない。〈待つ〉とは、その意味で、抱くことなのだ。
〈待つ〉ことはしかし、待っても待っても「応え」はなかったという記憶をたえず消去しつづけることでしか維持できない。待ちおおした、待ちつくしたという想いをたえず放棄することなしに〈待つ〉ことはできない」
「応え」がなかったという記憶を消去しなければ待てないのだ。待つという一見消極的な選択肢に見えますが、間違えばひどい場面に変わりうるかもしれません。期待や祈りという願望が強く込められているが、実現しないのかもしれないという不安があります。自己本位的な願望だということか。