犬との関係も、家族との関係も似たようなものだと思ったのは私もまた老いたからかもしれません。死がいつかのある日でなく、明日かもしれないという現実味を帯びてきたからでしょうか。近所の犬たちも亡くなり、もう飼い主も高齢化してもう犬を飼い続ける時間がなくなり、静かな街になってしまいました。そんな折、若い世帯が犬を連れて引っ越してきました。
「連載 あちらこちら 財津和夫
学校から帰宅すると、母が縁側で後ろ姿のまま「くまが死んだよ」と言った。 そのまま振り向きもせず彼女は編み物を続けた。私は「くま」を見に行った。 いつもは(帰宅したボクに)しっぽを揺するのに、写真のなかのように動かなかった。大人達が「犬の鼻先が乾いていたらもう終わりなんだ」と言っていたのを想い出し、鼻の先に触れてみ た。捨てられたタイヤのように干からびていた。(略)
「くま」の死を71歳の私は泣きながら書いている。悲しみというものは死によって生み出されるということを経験的に知ったからだろうか?あのとき死というものがどういうものなのか少年の私には未だ理解できなかったのかもいれない。 (ざいつ・かずおミュージシャン、挿絵はヨシフクホノカ)(一部引用)」(2019年10月25日西日本新聞)
生きものとの関係が苦手な私に朝と夕方に散歩を催促に来たのは散歩の後のエサを期待してのことだったかもしれません。散歩はしても抱き上げたりしてくれない人にある日、足を舐めてきました。かまってくれないことへの抗議だったのかもしれません。いよいよ食べなくなって最期が近いと居間に寝かせていました。犬の口から「ぽん」という音がしました。それが最後でした。