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太宰府 [街で]

「遠の朝廷(とおのみかど)」大宰府政庁址を訪ねて

新緑のまぶしい古代を偲び歩く

 大宰府天満宮から少し離れた観世音寺地区に、大宰府政庁址はあります。闘病中の我が身では外出が少なくなりがちですが、自宅から車で10分ほどと近いので、陽気のいい春の日に、昼食を食べに出かけました。

 政庁址の付近は、1955(昭和30)年代までは、田畑だったということで、その後、現在のように整備されていったとのことです。写真のように、広場の中に礎石群があるほかは、資料館などがあるだけです。

石碑

 写真中央の石碑には「都督府古址」と書かれていますが、大宰府の中国語表記ということです。

 地域の呼び名についてもいろいろあります。現在地名としては「太宰府」という表記で、史跡としては「大宰府」が使用されています。また、政庁址は、菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」と詠んだことに由来して都府楼(とふろ)とも呼ばれ、今も地名として残されています。さらに、お年寄りなどが「さいふ」と言うときは「太宰府天満宮」を指します。

 大宰府は、九州一円を治める国防に比重をおいた朝廷の出先機関でした。朝鮮半島に、日本府を置いたりしていましたが、朝鮮半島の勢力争いに加わったり、防衛するための機能として役割が期待され、奈良時代以降に、本格的に活動をしていきます。

 大宰府では高級官僚が50人程度、全体では2000人もの人が働いていたようです。組織は、防人(防衛)関係、学校院(職員研修所みたいなもの)など18前後の役所があったと言われています。

 時代によっても異なるという、学校院の跡地の石碑もあります。最近の発掘で、さらに西側にも建物があったということで、まだ全容が明らかになっているわけでもないようです。

政庁礎石

 大宰府の防衛のために、山城「大野城」ともうひとつの山城とを結んだ防塁「水城」(ミズキ)の跡が、現在も断続的に残っています。
 
 文化的には「万葉集」の大伴家持、山上憶良など歌人たちの活躍で知られています。私が、日々散歩する「歴史公園」には、いくつも歌碑があります。

 政庁址は、西鉄都府楼前駅から徒歩15分。太宰府駅から徒歩15分。菅原道真を祭る太宰府天満宮からも徒歩20分弱です。さらに、政庁址に隣接して日本最古の梵鐘がある観世音寺もあります。

 出かけるにはいい季節です。


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